あのお店はなぜ時代を超えて愛されるの? お客さんがみんな笑顔で出てくるのはどうして? 赤星探偵団の片瀬那奈団長が、名店の暖簾をくぐり、左党たちを惹きつけてやまない「秘密」を探ります――。
■蕎麦ツウたちの隠れ家
今から15年前、神田駅のほど近くに一軒の小さな蕎麦屋が誕生した。ビルとビルとの隙間、人がなんとかすれ違える程度の路地の奥に、その店はある。
築97年という大正ロマンの残り香漂う古民家に、靴を脱いで上り込む。中は一転、バーのような雰囲気。ここが連日蕎麦ツウたちを唸らせている「眠庵」だ。
営業は夜のみ。選りすぐりの肴で酒を呑む、いわゆる“蕎麦前”をゆるりと味わい、ほろ酔い加減で蕎麦を手繰る――片瀬団長は、そんなオトナの時間を学ぶため、この店にやってきた。
「眠庵」はテーブル3卓、カウンター4席のみの小体な店。主の柳澤宙(ひろし)さんが、蕎麦打ちからつまみ作り、提供まで一人で切り盛りしている。連日、予約でいっぱいだが、直前に1、2名の空きが出て、相席という条件で滑り込めることもある。今夜は特別に少し早く開けてもらった。
片瀬: 素敵なお店ですね。あの路地の奥に、こんなほっこりとした空間があるとは。まさに、大人の隠れ家っていう雰囲気です。ご主人、まずはビールをお願いします。
サッポロラガービール「赤星」をトクトクトク……。
――では、いただきます!
片瀬: は~~、今日も美味しい! こういう和モダンの空間では赤星の瓶がよく似合って、なおさら美味しくなる気がする。
さて、「赤星のお供を」と、品書きに向けられた団長の目がキラリと輝いた。
片瀬: 豆腐と納豆、自家製なんですね。おから煮は豆腐を作った後に出たおからを炊いているのかな。それから、牛肉と大根のバーボン煮、これはいっておきたいな。うるか? ご主人、うるかって何ですか?
「うるかは鮎の内臓の塩辛です。卵で作るものを子うるかって言ったり、身を混ぜたものを身うるかと言ったりします。うちのは内臓だけのうるか。めちゃめちゃ酒が進みますよ」
片瀬: はい、いただき!
豆腐、牛肉と大根のバーボン煮、うるか、やはり珍味の甘えびみそが先発メンバーに選ばれた。
■酒がめっぽう進む怒涛の“蕎麦前”
第一弾オーダーが揃って登場。
片瀬: わー、先発メンバーは「大人の定食」って感じになったなあ(笑)。では、お豆腐から、まずはお醤油をかけずにいってみましょう。
あぁ、美味しい……大豆のいい香りがふわっと広がる。そして、甘い。豆を感じる!
ご主人、強烈に美味しいです。これ、大豆は決まったものを使ってるんですか?
「長野県産のナカセンナリという品種を使っています。私は、蕎麦打ちは独学で師匠がいないのですが、豆腐作りは長野県茅野市にある豆腐屋さんに住み込みで教わりました。そこで作っていた豆腐でいちばんのものに使われていたのがナカセンナリで、これはなるほどいい大豆だなあと思いまして。
ナカセンナリは古くからある品種で、一般的な豆腐用大豆のタンパク質含有量が45%くらいあるのに対し、ナカセンナリは39%くらいしかないんです。その分、ショ糖の含有量が多くて甘味が強いのが特徴です」
片瀬: ホントに甘くて、大豆を味わってる感じがします。お醤油かけるのはもったいないな。お塩をちょっと振ってみようっと……うんまい!! 甘さが7倍になった!!
牛肉と大根のバーボン煮は、水とバーボンで4時間じっくり煮込んで作る、ビールのアテにピッタリの一品。団長は、ホロリとほどける牛肉を噛み締め、赤星をキュッとやって幸せそう。
片瀬: これ、かなり濃そうな見た目と違って、とっても上品な味なの。4時間バーボンのチカラ、すごいなあ。
甘えびみそは、かにみその甘えび版。団長は「あー、これ好き」、一舐め、「かにみそより好きかも」、二舐め、「濃厚。濃厚なんだけど、後味がベタベタしてないの」、三舐め、とペロリと平らげた。
次の瞬間、団長の口からため息が漏れた。犯人は、うるかだ。
片瀬: うるかの旨味、最強。2歳児のころから塩辛好きという私のオヤジ味覚をガンガン刺激してくる……。
もうこうなったら、アレも頼んじゃおう。すみません、ホタルイカの沖漬けと自家製の納豆をください。納豆は、珍味の中和役。
納豆もナカセンナリを使った柳澤さんのお手製だ。団長は、これも醤油ではなく軽く塩を混ぜて味わう。
片瀬: 美味しい~。ナカセンナリ、すっかりファンになってしまいました。
そして、ここでホタルイカの沖漬けで珍味の応酬。……(目をつむってしばし無言)……ホタルイカがまだ少し奥歯の横にあるんだけど、このままゆっくり味わいながら眠りたい。そのくらい幸せってこと(笑)。
「眠庵」という店名は、眠るようにゆっくりと過ごして欲しいという願いから、とか。本当に心から美味しいと感じた時に眠りたくなるという特異体質の団長は、まさにここにふさわしい客。でも、眠っちゃダメです。
押し寄せる旨味の大海原に身をまかせ、「えぇい、もうこうなったら、とことんまで!」と丸干しイカも注文。
大きなスルメイカをワタを抜かずに丸のまま、ぎゅっと小さくなるまで干したもので、焼いている時に漂ってくる匂いがすでに旨い。この匂いで呑める。
片瀬: (丸干しイカの一片をほおばって)これは、ヤバい。ヤバすぎる……。
もう、ダメ。お蕎麦くださ~い! 早くお蕎麦にいかないと、幽体離脱して戻ってこれなくなりそうだから。
■すべては蕎麦本来の風味のために
「眠庵」の蕎麦は、産地の異なる蕎麦をせいろで食べ比べできる。毎日、その晩提供する分だけを蕎麦の実から石臼で挽き、夕方に手打ちしている。
柳澤さんは、毎年、北海道から沖縄まで蕎麦の産地をめぐり、畑で蕎麦の実をかじっては、これだ!というものだけを取り寄せている。打つ蕎麦の産地は、その日の気分で決めている。一般的には収穫後すぐの新蕎麦が珍重されるが、あえて少し寝かすのが柳澤さん流だ。
流儀などと言うと、頑固な職人の姿をイメージするかもしれないが、柳澤さんはいたってフレンドリーで、なんでも気さくに教えてくれる。
「蕎麦の実は収穫後、水分含量が15%になるまで乾燥機で乾燥させるのが一般的なんですね。でも、外側は乾燥していても中心部分にはまだ水分が残っていて、一晩経つと実の中の水分が均質化して、また16%くらいまで上がってしまいます。そのため再び15%まで乾燥させるのですが、さらにその後でも15.2%くらいに上がってしまうものなんです。
うちは蕎麦を石臼で挽くところからやっているのですが、出荷されたばかりの蕎麦は、その状態がまだ微妙に続いていて、外皮が硬すぎ、中が柔らかすぎて上手く挽きにくいんです。だから、私は専用の袋に入れて1~2ヵ月ほど寝かして落ち着かせてから使っています」
片瀬: 蕎麦ってすごく繊細なんですね。それにしても、柳澤さんの話には正確な数字がよく出てきて、とっても科学的でロジカルな印象があります。
「ははは。前職のせいですかね。この仕事を始める前は、化粧品メーカーで主に分析を担当する研究員でした。だから今、当時勤めていた会社の分析器を使えたら、蕎麦のことをもっとよく知れて楽しいのになあと思ったりします。1台ウン千万円もするので到底無理な話ですけどね(笑)」
柳澤さんが蕎麦の道を歩むことになったのは、化粧品メーカーから香料メーカーの研究所へ転職しようとしたのがきっかけ。30歳の時だ。働き詰めで突っ走ってきた足を止め、次の仕事のスタートまで6ヵ月間の休暇を取ることにした。まず熱中したのが山登りで、立て続けに60座ほど登ったそうだ。
「長野と山梨の山を中心に登りまして、下山すると必ず温泉に入って蕎麦を食べていました。そんな日々を2ヵ月くらい送っているうちに、蕎麦って本当に美味しい食べ物だな、と思うようになりまして、そこから全国の蕎麦の産地を回ってみたんです。そうやって6ヵ月を過ごしたら、もうサラリーマンはいいや、自分で蕎麦を打ってみようと考えるようになって……」
片瀬: やることが全体的に極端ですよ(笑)! それから独学で蕎麦打ちを追求して……「眠庵」の開店はその6年後ですか。それまではどうやって暮らしていたんですか?
「貯金を切り崩しつつ、親しくなった蕎麦屋を繁忙期に手伝ったり、それから、蕎麦の研究をしている大学の先生のお手伝いをしたり。あ、先生のお手伝いは、交通費とタダ酒だけで、報酬はありませんでしたけど」
柳澤さんが理想とする蕎麦は、畑で蕎麦の実をかじった風味をそのままに再現することだという。産地ごとの多様な個性を伝えたいという思いがある。この日の二種盛りは、栃木県益子産と長崎県対馬産の蕎麦だ。
片瀬: そもそも長崎や沖縄でも蕎麦が穫れるというのも意外。蕎麦が美味しいと思えるようになったのって20代後半からで、それ以前は蕎麦よりうどんが好きだったし、うどんより断然ラーメンでした。
実を言うと私、今でも本格的なお蕎麦屋さんにはちょっと苦手意識があるんです。お作法的なものも多いでしょ。蕎麦ツウの人と一緒だと、一口目はつゆを付けずに蕎麦本来の香りを楽しむべし、って叱られちゃったりして。
心の中では「一口目からおつゆにどっぷり浸して食べたいのに」と思いながら「そうですか」と従って、いつも複雑な気持ちになるの……。
■本当の香り、かいだことありますか?
二種盛りが登場。柳澤さんは「一口目はそのまま召し上がってみてください。つゆを付けるとどうしても香りを感じにくいので」と、少しはにかむ。
そんな言葉を聞くか聞かずか、2枚のせいろを前にしただけで「いい香り!」と驚く団長。
片瀬: すごい、これ! ものすごい香り。(せいろを顔に近づけて)蕎麦の香りってこういうことかあ。どこか枝豆にも似た食欲を刺激する豊かな香り。
どれどれ……(何も付けずに一口すすって)すんごいっ! 蕎麦の香りが鼻に抜ける。これも塩でいってみよう。
(塩をひとつまみかけた蕎麦をすすって)美味しい。甘味も際立ってきた。対馬産は特に香り高くて上品。益子産は風味のバランスが絶妙で……もうこれは、つゆ要らないかも。“つゆいらず” だな。
とはいえ、片瀬流作法“つゆいらず”もそこそこに、柳澤さん渾身のつゆでも味わってみると、蕎麦とダシの風味の掛け算で、これまた感動的な旨さ。
2枚のせいろを瞬殺した団長は、蕎麦湯で割ったつゆを飲んで「蕎麦湯、サイコーだな」とひとごこち。うっかりするとこのまま眠ってしまいそうだ。
本物の蕎麦に出合い、世の蕎麦っ食いたちの気持ちを理解した夜だった。
――ごちそうさまでした!
撮影:峯 竜也
構成:渡辺 高
ヘアメイク:青山理恵
スタイリスト:大沼こずえ
衣装協力/PS Paul Smith(03-3478-5600)
ABISTE(03-3401-7124)