あのお店はなぜ時代を超えて愛されるの? お客さんが笑顔で出てくるのはどうして? 赤星探偵団2代目団長・尾野真千子が、名酒場の暖簾をくぐり、左党たちを惹きつけてやまない「秘密」を探る――。
■今宵はふたりでしっぽりと
そこはかとなく昭和の匂いが感じられる台東区根岸エリア。交通量の多い言問通りから路地に入るとすぐ、黒塀に囲まれた堂々たる日本家屋にたどり着く。東京屈指の老舗酒場として知られる「鍵屋」である。
折しも東京は大雪の夜。雪化粧をした「鍵屋」に尾野団長はやってきた。この日はいつもの一人酒ではなく、ある殿方と一献という趣向。団長をエスコートするのは、赤星探偵団の別企画「100軒マラソン」でおなじみの大竹聡氏だ。
大竹: 初めまして。酒を飲み、つまらない文章を書いております大竹と申します。実は鍵屋さんには、先代の遺言により、女性だけの入店はまかりならんという鉄の掟がありまして、今宵は私がお供をさせていただきます。
尾野: へえ~、そういうことだったんですね。大竹さん、わざわざありがとうございます!
素敵なお店ですね。凛とした空気が漂っていて、でも、この薄暗さが妙に落ち着きます。さ、飲みましょ、飲みましょ。今日は雪見酒ですよ。まずはビールですね!
楓の一枚板のカウンター中央に陣取ったふたり。そこへやってきたのは、サッポロラガービール、通称「赤星」だ。グラスに注ぎ合って、さっそく乾杯!
外は雪がしんしんと降り、気温がぐんぐんと下がっている。そんなことはお構いなしに、温かい部屋でやるビールというのはオツなものである。
尾野: うまいっ!
大竹: いい飲みっぷりだね~。こちらの店のつまみは何を食べても旨いですよ。まず、お通しのこの煮豆がうまいんだ。
尾野: しわも寄らずにふっくらきれいに炊いてあること。どれどれ……おいしい。やさしい味付けで、お豆さんの甘味がいい感じ。
大竹: おいしそうに食べるなあ(笑)。ところで団長、食べ物は何がお好きですか?
尾野: たたみいわし。
大竹: ははは。好きなんだ、たたみいわし。渋いね。頼みましょう。
大竹: おすすめですか? 焼きものも、旨いですよ。ここは開店直前にご主人がこのカウンターに座ってね、もつとか合鴨とか、1本1本仕込んでいるの。新鮮なやつを炭火で焼くから格別なんですよ。私はいつも鳥の皮やき、そして、くりからやきを……
尾野: くりからやきってなんですか? え、鰻なの? わたし、鰻大好きなんです! わたくし、鰻大好きなのです!
大竹: はいはい、わかりました(笑)。ご主人、くりからやき、2本お願いします。
尾野: あと、気になるのが、冷奴のとなりの、「煮奴」っていうのは?
大竹: これもこちらの名物です。文字通り煮た奴なんですけど、コイツがまた、うまいんだなあ。今日は寒いし、いっときましょうか。
尾野: 大竹さんにおまかせします。
大竹: 美女に見つめられると、いい歳して照れちゃって、どうもいけません(笑)。
■江戸末期、酒屋として創業
カウンターの中ではご主人、清水賢太郎さんが、ひとり寡黙に炭火焼きを担当し、年季の入った銅壷(どうこ)で順番に酒の燗をつけていく。その無駄のない動きは、見ているだけで気持ちがいい。
そして、店内にあるもの一つひとつが珍しい年代物の品ばかりで、料理を待つ間も目を楽しませてくれる。
尾野: このポスターの「カブトビール」って、昔、本当にこういうビールがあったんですか?
大竹: ええ、サッポロビールとも関係があるんですよ。カブトビールは明治から戦中まで作られていたビールで、会社自体はサッポロビールの前身の大日本麦酒と合併したそうです。
その横の木彫りの看板も妙な迫力があっておもしろいですね。「佛國」とか「葡萄」の文字がありますから、ワインの広告看板でしょうかね。
尾野: あの槍みたいなのは何?
大竹: これも今ではなかなかお目にかかれないシロモノです。酒樽に穴を空ける道具ですよ。木でできた槍の先のようなのが、空けた穴に挿す吞み口です。たぬきの置き物が持っているような瓶は、配達用の酒瓶。こういった道具は、鍵屋さんが酒屋だった証です。ね、ご主人。
「ええ、うちは江戸末期に酒屋として創業しました。初代のルーツは伊賀にありまして、安政3年(1856年)に津藩の参勤交代について、仇討ちで有名な鍵屋の辻(現在の三重県伊賀市小田町)から江戸に下ってきた酒の小売商だったんです。
先祖はこの地に落ち着いて、酒の販売を始めました。荷車を引いて上野寛永寺などに酒を配達していたそうです。ポスターや看板も、昔の店で実際に使っていたものです。木彫りの看板は、西洋のお酒が滋養強壮などの薬として販売していた時に店内に掲示していたもので、商品はキニーネが入った飲み物だったようです」(清水さん)
大竹: やっぱり看板なんだね。ワインとか、適当なこと言っちゃったな(笑)。さあ、さあ、団長の好物の鰻が焼けたようですよ。
■売り切れ必至のくりからやき
尾野: くりからやき、うまっ! ぷりっとしてて、うまっ! もう1本食べた~い。
くりからやきは鰻の仕入れがむずかしいことから、売り切れ必至の数量限定品。お一人様1本という決まりだ。
大竹: (しょぼんとした団長を見て)私の分も食べていいですよ、何度も食べてますから。
尾野: やった。いただきます! 大竹さん、ビールをどうぞどうぞ。ご主人、もう1本くださいな!
大竹: お、続いて煮奴がきましたよ。
煮奴は大きな豆腐が鳥のもつとともに甘辛い醤油味のつゆで煮込まれた一品。まさに東京風の味付けで、ビールとも日本酒とも完璧な相性を誇る。
団長はたっぷりのネギをかけたアツアツの煮奴をぱくり。グラスをくいっと傾けて幸せそうだ。
味噌おでんは豆腐、ちくわぶ、コンニャクの味噌田楽だ。からしをちょいとつければビールが進まないはずはない。
大竹: おでんって、もともとはこういう田楽のことを指していたらしいですよ。みんながイメージする出汁で炊いたスタイルは関西で広まった料理で、田楽と区別するために“関東煮(かんとだき)”と呼ばれていました。それが関東に逆輸入のように伝わって……と変わった経緯があるんですよ。
尾野: へえ~、なんだか不思議な話。大竹さんはためになることをいろいろ教えてくれるね。ちくわぶも食べていい?
大竹: めずらしい。関西の人ってちくわぶ、苦手な人が多いでしょ。
尾野: うん、まあ、そうですね。でも、なかなか食べる機会がないから、久々に食べてみようかと思って。
尾野: (ひと口ほおばって)あ、そうそう、このかんじ。うんうん、ちくわぶだね……。お豆腐食べていい? (ひと口ほおばって)おいしっ!
大竹: やっぱりちくわぶは、ダメか(笑)。私はというか、関東の人はだいたい、おでんというと、ちくわぶがないと始まらないんだけどね。
尾野: あの、ご主人、わたしがちくわぶにあんまり惹かれないってだけですからね、とってもおいしいですよ。
へえ~、お味噌は数種類をこちらでブレンドしているんですか。どおりで、おいしいわけだ。この味噌をなめるだけでずっと呑んでいられそう。
大竹: こちらのたたみいわしはちょっと変わってるでしょう。こう、クルっとカールしていて。これがまたうまいんだ。
尾野: わたし、この、パリッとしていて、そして、噛みしめるほどに味が出てくるこの感じがたまらなく好きなの。どれ、どれ。
うん、おいしい~。もう、これだけで、赤星、あと2本ぐらいいけちゃうな。
大竹: 燃費がいいんだか、わるいんだか(笑)。
■変わらない酒とつまみ
尾野: ところで、酒屋だった鍵屋さんはいつから居酒屋になったんですか?
団長の質問に答えてくれたのは、奥の台所を仕切る女将、清水繁子さんだ。
「昭和24年です。戦後、先代が居酒屋一本でやっていくことに決めて、酒販免許を返上しました。昭和49年までは、創業年と同じ安政3年に建てられたという言問通り沿いの店で営業していました。現在、その建物は江戸東京たてもの園に移築されて、内部まで昭和45年ごろの姿に復元されています。
今のこの建物は大正時代に建てられたもので、かつては日本舞踊のお師匠さんが住んでいた家です。そこのお座敷部分がちょうど舞台になっていて、踊りの稽古に使われていたそうですよ。建物自体にはほとんど手を入れていません。
品書きもほぼすべて先代が決めたもので、秋冬は湯豆腐と煮こごりが加わりますが、基本的に年中同じ。それをずっと守り続けています。鍵屋へ行けばあの肴で一杯やれると、思い出してもらえる店でありたいんです」(清水さん)
尾野: 女将さん、くりからも、煮奴も、おでんも、たたみいわしも、みーんなおいしかったです。どれも丁寧に愛情込めてお料理されているのが伝わってきます。
きっと鍵屋の常連さんには、それぞれ自分のお気に入りメニューがあるんでしょうね。よし、早く仕事終わらせて、あのアテで一杯やるぞ!っていう(笑)
大竹: 団長、鍵屋さんは酒の銘柄も昔からずっと変わらないんですよ。すべて灘の酒と潔い。
酒は菊正宗、大関、櫻正宗の3種類。秋から冬にかけての“菊”と春の“桜”、そしてみんなが大好きな相撲人気にあやかって“大関”をと先代が選んだのだとか。
尾野: それぞれ、辛口、中辛口、甘口ですか。では、春を先取りして、櫻正宗にお燗をつけていただけますか。
雪、どれくらい積もったかな。ま、あとのことはあとで考えればいっか。大竹さん、もうちょっと呑んでいきましょ。ご主人、お酒もう1本つけてください。
大竹: じゃあ、私は菊をお願いします。団長、とり皮やきも食べていいですよ。
――ごちそうさまでした。
撮影:峯 竜也
構成:渡辺 高
ヘアメイク:石田あゆみ
スタイリスト:もりやゆり
衣装協力/…&DEAR、CASUCA