あのお店はなぜ時代を超えて愛されるの? お客さんがみんな笑顔で出てくるのはどうして? 赤星探偵団の6代目団長・赤江珠緒さんが、名店の暖簾をくぐり、左党たちを惹きつけてやまない「秘密」を探ります――。
たった一人で丹精込めて
東急世田谷線は三軒茶屋から下高井戸までの約5kmを18分で結ぶ軌道線。東京では都電荒川線(さくらトラム)と2線のみになった路面電車である。短い車両が住宅街をゆっくりトコトコ走る姿は、ほのぼのとして愛くるしい。
本日、赤江珠緒団長が目指すのは、世田谷線のほぼ真ん中、世田谷駅にある和食の店「うろこ雲」。ステンドグラス風の丸窓と、店先に停められたイタリア製のスクーター、赤いベスパが目印だ。
木製の重厚な引き戸を開けると、鰻の寝床のように細長い空間が広がっている。入り口の脇にテーブル4席、奥に向かって伸びるカウンターが8席、一人もしくは二人でしっぽり飲るのにちょうどいい。
奥へ進んで厨房と対峙する特等席に腰を落ち着けた団長が頼むのは、もちろん赤星、サッポロラガービール。誰かに注いでもらうのもいいけれど、こうして手酌でやるのも“自分へのご褒美”という風情でオツなものだ。
さあ、さっそく始めるとしよう。
――いただきます!
赤江: ふうぅ、美味しい。新緑の爽やかな季節に飲む赤星は、また格別ですなあ。
「うちのお通しは年中、貝をお出ししています。今日は黒バイ貝と磯つぶ貝です」と、呑兵衛にはたまらない肴を出してくれたのは店主の稲村卓也さん。調理を一手に担っている。
赤江:(貝が浸っていた出汁まできれいに飲み干して)いーーお味。赤江、もうすでに期待値マックスでございます。
お店の規模からするとメニューがずいぶん豊富ですが、こちらを全部、稲村さんがお一人で仕込まれているんですか?
「ええ。どんなに忙しくて、どんなに仕込みが大変でも、一人でやるのが性に合っていまして。人に気兼ねしなくていいのが一番なんですよ。営業時間中はアルバイトの子にサポートしてもらっていますが、うちのアルバイトは全員ダブルワークで、週1回の曜日替わり。このシステムがまた私の性に合っていましてね。1週間、同じ話題を繰り返しても、毎日違うリアクションをもらえるでしょ。あ、この話、今日もウケたな、みたいな」
赤江: ははは。わかる! 私も長年、日替わりのパートナーとラジオの帯番組やっていたので。気分が変わって新鮮ですよね。
それにしても、仕入れから、仕込み、調理、片付けまで全部お一人というのはすごいです。えっ! 金土は深夜3時までの営業を始めたんですか!? どれだけ働き者なんですか。
「子どもの塾代を稼がないといけなくなりまして。ヨメが惜しみなく塾代を注ぎ込みますもので」
赤江: それはお父さん、頑張らなくちゃ(笑)。赤江も赤星を飲んで、塾代の一部に貢献したいと思います!
魚料理が中心のこちらでは、獲れたての魚介が、信頼する鹿児島の鮮魚店から直送で届く。まずは、お造りを見繕ってもらった。
この日は、真鯛にメバチマグロ、ウニ、〆鯖、アラ、太刀魚の炙り、マダコが盛り込まれた。
赤江: わぁ、角がピンッと立っていて、見るからに間違いない鮮度! どれどれ……。
むふっ。大将、お見事、恐れ入りました、おいしゅうございます。
美味しさのヒミツは内助の功
当店がオープンしたのは2016年10月末。折しも秋の高い空になびく雲が美しい季節。そして魚に力を入れる料理店にしたいという思いから、「うろこ雲」と名付けたという。オープン当初は、奥さんと二人三脚で切り盛りしていたのだが……。
「早々に、仕事上ではヨメとのコンビを解消しました。ヨメはそれまで自分でバーをやっていましたから、女将という立場で私を引き立てるのが歯痒かったのでしょう。すぐにうまくいかないと分かりましたね。ご夫婦でやられているお店は本当に尊敬します。うちは夫婦関係に決定的な亀裂が生じる前に、ヨメにお引き取りいただきました」
朴訥と、じっくり言葉を選びながら稲村さんは話す。
ジューーッという音が響いた刹那、バター醤油の香りが鼻腔をくすぐる。
2品目に頼んだ筍とホタルイカのバター醤油が出来上がった。
赤江: 美味しいっ! 春の味覚、山代表と海代表が世田谷で出逢いましたね。
春を堪能、ギリギリ滑り込みセーフです。いや〜、赤星ともバッチリ合いますわ!
恋の行方とだし巻き玉子
赤江: じつはワタクシ、“手書き文字フェチ”でして、表で撮影している時から気になっていたのですが、こちらのお品書きはとても魅力的な文字ですね。
へえ〜、毎日奥様が書かれているんですか。味があって、でも読みやすくて、どのお料理も美味しそうに見えます。
「ありがとうございます。自分だけでやっていると、どうしてもメニューに偏りが出てしまいましてね。あれは面倒だからやめとこうとか、つい。その点、ヨメは材料や営業中の手順のことも心得ていますから、たとえば、ガリも海苔もあるんだからできるハズと、『〆鯖とガリの海苔巻き』とかしれっと書いていたりするんですよ。こちらは注文を受けてはじめて、そんなメニューあったんだと気付くような始末で。おかげで緊張感を持って仕事に臨めています」
赤江: はははは! ちょいちょい奥様の存在が見え隠れしますね。さぞや魅力的な方なんでしょう。お二人はどこで出逢われたんですか?
団長、ホタテと青大豆の海苔和えをつつきながら、馴れ初めストーリーもつっつく。
奥さんは稲村さんの9つ年上。稲村さんが和食店で修行している若き日に、奥さんがバーテンダー、稲村さんが客という立場で知り合ったそうだ。
「毎日深夜まで働いて、ヘトヘトになって歩いて家に帰るのですが、数時間後にはもう出社しなければいけません。心身共に疲弊している時に、ふと見つけたバーを覗くと、お客さんが楽しそうに飲んでいた。私も思い切ってそこへ飛び込んで、一杯やってから帰るようになりました。5時まで飲んで、それから少し寝て、身支度して9時にはまた家を出るという生活……若いからできたんですね」
赤江: バーでのひと時が心の栄養になっていたんですね。
「はい。そのバーをヨメがやっていたのですが、ある時、私がちょっと愚痴ってしまったんです。だし巻き玉子がうまく焼けないと。すると、ものすごい勢いで叱られましてね」
赤江: えっ、どうして? バーで、こちらの仕事のことで叱られることってあります?
「そうですよね。でも、『ここで飲んでる場合じゃないだろ。そんな時間があったら玉子を焼いて練習しろ。ちゃんと焼けるようになるまで来るな』と言われ、私は出禁になってしまったのです」
赤江: なんと素敵な! そんな理由で出禁になった話、初めて聞きました(笑)。
そして、修行を重ねて見事に焼けるようになり、凛々しく成長した青年は、お姉さまに報告しに行くと。
「ええ。驚くと同時に目が覚めまして、それから仕事に身を入れるようになり、だし巻きを含めいろんな調理を任せてもらえる立場になれました。そして再び店を訪ねて……結婚へとつながってしまったわけですね」
赤江: 最高の奥様! 会話にちょいちょい挟まれる奥様へのプチぼやきも、信頼と愛情の証とお見受けしました。
いや〜、お品書きの文字からまさかこんな素敵なお話に発展するとは思いもしませんでした。最高すぎます。
いくらでも呑めるキケンな肴たち
「美味しいーーっ!」と団長がまたもや目を見開いたのが、魚介たっぷりカニクリームコロッケだ。
からりと香ばしく揚げられた小ぶりなコロッケには、カニをはじめとする様々な魚介の旨みがこれでもかと濃縮されて詰まっている。
赤江: これは完全にイカンやつです。呑めるコロッケです! あ、そのまま飲み込んだらやけどしますよ。そうではなく、お酒が進むコロッケ。
端っこから崩しながらちょっとずつ赤星をグビリ……はい、サイコー! お酒も間違いなく合うでしょう。
大将、もうダメです、日本酒もお願いします!
「さすが、イケる口ですね。カニクリームコロッケもいいですが、酒の肴に今日はこんなのもありますよ」と稲村さんが出してくれたのは、“モウカの星”として知られる三陸名物、モウカザメの心臓だ。塩とごま油でいただく。
赤江: お・い・し・い〜。なんというか、レバ刺しのような美味しさ。生のレバーをいただく機会がなくなって久しいですが、そうそうこの感じ。お酒も進みます。これはいかんです。
泥酔して前後不覚になる前に、そろそろ〆をお願いします!
テッパンメニューが揃う「うろこ雲」でもぜひ味わいたいのが、その場で炊き上げる土鍋ごはんだ。団長は真鯛と筍を入れて炊いてもらうことにした。
利尻昆布をふんだんに使って取った出汁に、真鯛のアラをじっくり煮出したエキスをプラスした濃厚なダブル出汁。筍の細切りと真鯛の大胆な切り身が、そこまでやるかよというくらいに贅沢に入った、スペシャル鯛めしだ。
赤江:(ひと口頬張り、しばし無言)大将、客をどうするつもりですか?
こんなキケンな食べ物を世に送り出して、なんて罪作りな人なんだ、アナタは。〆と言いましたが、コレ、呑めるごはんです。
「固めに炊いていますので、よく噛んでお召し上がりください」
赤江: あ、いや、飲み込めるという意味ではなくて、このくだり、2回目ですね(笑)、おつまみの一品として、この上なしでございます。
大将、お酒をもう1杯お願いします。そして、チェイサーに赤星ももう1本!
しっぽりやって締めくくるはずの飲みは、にわかに景気づき、あらためて腰を据えた第二幕が始まりましたとさ。
――ごちそうさまでした!
(2024年4月18日取材)
撮影:峯 竜也
構成:渡辺 高
ヘア&メイク:上田友子
スタイリング:入江未悠