お久しぶりでございます。すっかりご無沙汰をいたしました。
サッポロラガービール“愛称・赤星”を訪ねて歩く「赤星100軒マラソン」ですが、56軒目訪問の様子をまとめましてアップしたのが3月上旬のこと。あれから4ヵ月が過ぎました。時間の経つのは驚くほど速いものです。
けれど今、ようやく事態は好転してきたようです。実は先日、赤星の飲める店にひとり、ふらりと出かけてみました。
「ビール」
「生? 瓶?」
「瓶ビール、赤星」
「あいよ!(店内に響き渡る声で)赤星いっちょー!」
気分がよかったねえ。自宅酒、テイクアウト酒は、たっぷり楽しんできたものの、やっぱりねえ、飲み屋の椅子に腰かけるや間髪入れずに好きな瓶ビールをもらうのは、いいものです。そこには、他に替えがたいヨロコビがある。
出てきた赤星の瓶を見る。久しぶりに対面した古い友達のような心持ちで、その表情をじっと眺める。
この、日本でもっとも古いビールブランドは、どんな時代に生まれたのか。久しぶりで、そんなことを思い返したくなってきました。
■赤い星のラベルの歴史
赤星が生まれたのはいつか。実は、かなり古いのです。その歴史は、1876年にまで遡る。
大政奉還によって徳川の世が実質上終わるのが1867年のこと。明治政府は、北海道開拓使を設置して、産業の育成を図る。その一環として取り組んだのがビールの醸造だった。
1876年に北海道開拓使麦酒醸造所が始動、翌1877年には開拓使のシンボルである北極星を表す赤星ラベルの冷製「札幌ビール」が誕生する。ちなみに「冷製」とは、ドイツの醸造法によって低温で発酵・熟成させたビールという意味。
東京で発売された当時の価格は、大びん1本が16銭。上等の日本酒の平均的な価格が1升(1.8リットル)あたり4銭5厘ほどという時代ですから、ビールは大変な高級品だったわけです。
それから約10年後の1888年8月には、びん内に残った酵母を加熱して死滅させる熱処理技術を完成させ「札幌ラガービール」が発売される。この、現在の赤星にも受け継がれる「熱処理」によって耐久性が向上、常温での長距離輸送に耐えられるようになったため、輸送コストの大幅ダウンが実現し、ビールの販路拡大につながったという。
これが、私が居酒屋で「赤星!」と叫ぶ、あの、赤星の起源です。
だいたい、今から140年ほど前のことだ。明治の出来事で言うと西郷さんの率いた西南戦争の年。視点を変えて、それより以前へと年表を遡ってみるならば、1877年から90年ほど前に、歴史の授業でも習ったある出来事にたどり着く。
時は1787年。寛政の改革。八代将軍の孫の松平定信が老中となって行った大改革です。緊縮財政、風俗取締りを推進した、江戸の三大改革(ほかに、享保の改革、天保の改革がある)のひとつ、ということですよ。たしかに、習ったはずですが、なにしろ、昔の話で……という言い訳が霞むほどに、時の流れの不思議に、心打たれもするのです。
寛政の改革で田沼意次時代の政治を改め……なんて言っていた頃から90年後に赤い星印の国産ビールが生まれ、そのときから正確に数えると、今年までに143年の歳月が流れている。赤星の歴史の長さには驚きますよ。
官庁であった開拓使から、醸造所の経営が民間に移行したのが1886年。ビールの熱処理殺菌技術に道をつけたが1888年。そして、1893年には株式会社になるのです。西暦を見れば明らかなように、まだ、19世紀。
ちなみに、我らのよく知る人物の人生からこの頃を振り返りますと、1890年は、23歳の夏目漱石が東京帝国大学に入学する年である。さらに言いますと、その漱石は38歳のときに『吾輩は猫である』を発表して小説家としてデビューするわけですが、それが1905年のことです。
この年、我らが赤星の歴史上で何が起こっていたかというと、札幌麦酒会社念願の東京工場が隅田川沿いの旧秋田藩主佐竹邸跡地に竣工、サッポロビールの製造量は日本一になったのです。
〈吾輩は猫である。名前はまだない〉
あの有名な書き出しを漱石が毛筆で紙に書きつけたその年、札幌麦酒は業界トップだったんです。
明治の文士たちは、牛鍋とか、カツレツとか、ハイカラなものをあれこれ食べては議論に花を咲かせた折に、赤い星を記したラベルのビールを飲んでいたのかもしれない。そんな絵が浮かんできます。
内田百閒の逸話にこんなのがある。料亭を後にするときの先生が、女将さんに向かって、「ここのビールはうまいから6本包んでくれ」と言った、というのです。これも、いいな。内田百閒ともなるとブランドを超越している。
文士の話はさておき、国内で一番になった翌年には、ビール業界の再編という大きな波が起こります。恵比寿ビールの日本麦酒と、朝日ビールの大阪麦酒と札幌麦酒の3社が合同して、「大日本麦酒」が発足していたのです。当時のシェアはなんと7割。まだ明治時代の終わりごろのお話です。
それから大正ロマンの時代を経て、激動の昭和へ。戦後の1949年には、大日本麦酒は、日本麦酒と朝日麦酒に分かれます。前者の日本麦酒は、「サッポロ」と「ヱビス」のふたつのブランドを継承するも、両方とも地域ブランドだったたこともあり、1951年、「ニッポンビール」を発売。さらに、1954年ごろから、いったんは消えてしまった「サッポロビール」ブランド復活の気運が盛り上がりをみせ、1956年、ついに「サッポロビール」が復活する。
復活した「サッポロビール」は好評をもって迎えられた。そして、復活から8年経った1964年、社名は、サッポロビール株式会社に変わる。
■うまいビールの合言葉
と、ここまでたどってきてやっと、赤星と私の人生との間に関わりが出てくる。というのも私の生年は1963年。私が1歳のとき、先の東京オリンピックは開催され、日本麦酒はサッポロビールになったわけなのです。
実際には、私がビールの味を知るのはさらにずいぶん後の話です。昨今、なかなかのベテラン飲兵衛と目される私ではありますけれども、私とビールの関係など、本当に短いもの。赤星の歴史に比べたら、私のビール歴など、ごく最近のことと言えるでしょう。
私の父はよく飲む人でした。大瓶のビールは酒屋からケースで配達してもらっていました。で、このビールというのが、我が家ではサッポロだった。
昔のサッポロビールの宣伝に、「ミュンヘン、サッポロ、ミルウォーキー」というキャッチフレーズがあります。私はこれを、子供のころに知りました。ドイツのミュンヘン、日本の札幌、アメリカのミルウォーキーという、ほぼ北緯45度線上にならぶビール3大銘醸地の名を列挙したキャッチフレーズです。
でも、このキャッチフレーズが最初に登場したのは1958年。私が生まれる5年も前の話なのです。おかしい。私がそれを知っているのはおかしい。サッポロビールの歴史資料を読みながら不思議に思ったのですが、しばらく考えて、ハッと思い出した。私は、このキャッチフレーズをテレビで流れたCFソングで覚えたのだった。いつのCMか? ミュンヘン、サッポロ……。ミュンヘンだ! ミュンヘンオリンピック!
東京が1964年、次のメキシコが1968年、そして、ミュンヘンが1972年。私はこの年、9歳になるわけだから、辻褄が合うぞ。
と思ったところで、ああ! と思わす叫んだ。
ミュンヘンだけじゃない! 1972年、夏のオリンピックはミュンヘン開催ですが、その年の冬季五輪は札幌で開催されていたのだ。
ビールの3大銘醸地を広告コピーに使っていたサッポロビールにとって1972年は、札幌とミュンヘンという、かつて広告で列挙した土地がふたつ、オリンピックの開催地として名を連ねる年だった。
だから、覚えているのでしょう。なぜかラテン調のリズムにのせて、
知っていますか、知ってるかい♪
世界のビールの名産地♪
ミュンヘン、サッポロ、ミルウォーキー♪
うまいビールの合言葉♪
ミュンヘン、サッポロ、ミルウォーキー♪
と唄いあげるCFソングをはっきり覚えている。私の場合、名優三船敏郎を起用した傑作「男は黙ってサッポロビール」よりも、「ミュンヘン、サッポロ、ミルウォーキー」のほうが、今も記憶に鮮明なのです。
この後の話は、ざっくりと端折らせていただきますけれども、1980年代に酒を飲み始めた私は、40年近く飲みっぱなしに飲んできて現在に至るわけですが、2020年の今、居酒屋で、最初の1本に、赤星を選ぶことが多い。赤星を贔屓にするご店主がいて、常連さんがいる。そういう光景を眺めることもある。
ああ、みなさん、お好きなんですね、と思いながら瓶を傾ける。夏のこの時期、最初の1杯にはもちろん生ビールもうまい。けれど、いつも変わらぬ瓶ビールもうまい。143年の歴史あるビールは、今日もうまいのだ。
赤星100軒マラソンはまだ道半ば。この夏も、新たなお店と出会いつつ、おいしい赤星を、きゅーっと、いただきたいものです。