サッポロラガービール、愛称「赤星」を訪ねて飲み屋から飲み屋へとはるばる歩く赤星100軒マラソンも今回で数えて90回目。久々に地方遠征の指令が下り、取材隊が向かいましたのは名古屋です。中京圏の中心都市ですから、飲み屋も星の数ほどあるわけですが、中でも指折りの老舗を訪ねることになりました。
実は私、名古屋にはほとんど土地勘がない。しかし、だからといって不安ということもない。あまり詳しく知らない土地に名店を訪ねる旅とはつまり、まだ知らぬ名店に出会う旅であるから、むしろワクワクするくらいです。
編集Hさんが選んでくれた1軒目は、名古屋で最も古い商店街とも言われる円頓寺商店街にある「上野屋本店」。「とんやき」のお店です。関東でお馴染みの「やきとん」ではなく、「とんやき」。はて、とんやきとは何であるか。俄然興味がわく関東者でございます。
創業はなんと、大正5年!
迎えてくれた現在の店主は上野幸一郎さん。今年で40歳、この店の5代目とのことです。
いや、しかし、飲み屋さんで5代も続いている店というのは、あまり聞いたことがない。5代となると、創業から何年ほどが経過しているのか知りたいところだろう。読者諸兄姉、驚かれるな。なんと、創業は大正5年です。
さて、大正5年とはいつであるか。今からちょうど100年前は西暦の1924年。その和暦は、大正13年。それよりさらに8年も前に、この店は創業している。つまり、創業108年!
もともとは屋台だったと、上野さんは語ります。
「この商売はひい祖父ちゃんが、大須の近くの上前津というところに屋台を出して始めたんです。戦後、2代目のお祖父ちゃんが円頓寺に場所を移してとても繁盛していたのですが、交通事情や美観の問題で市内の屋台が全廃されることになり、昭和47年に店舗形態に移行しました。3代目は私の父の弟で、父が4代目を継いだのですが、その父が6年前に急に亡くなってしまい、急遽、5代目として私が店を継ぐことになりました」
30代の半ばまで自動車関係の会社でサラリーマンをしていた上野さんは、元々は、家業を継ぐつもりはなかった。長く続いた店だが、このあたりで幕を下ろしてもいいのではないか。先代の急逝に際して、上野さんの伯母さんは、そう言ってくれたという。
「勢いだけでやれる仕事ではないですから、伯母がそう言うのももっともです。でも、いざ無くなると考えると、僕は冷静にはれなかった。半分、意地で、店を継ぐと決めました。小さい頃から父の背中を見て手伝いをしてきたので仕事の流れは分かっていましたし、幸いにも、継ぎ足し継ぎ足しで使ってきたタレのレシピが実家の金庫の中に残っていたので、なんとか味を変えずに継承できたんです」
ちなみにこの店では、この秘伝のタレを「てり」と呼ぶ。串焼きの味付け「てり」「しお」は、店主おまかせとなっているため、客の側で指定することはできない。
この日は特別に開店前にお邪魔したのだが、テーブル席でさっそく赤星をコップに注いでキューっと1杯やりながら上野さんの話を30分ほど聞くうちに、もう、私は我慢ができなくなった。常連さんたちで賑わうであろうカウンター席に移らせてもらい、早々と串焼きをいただくことにしたのだった。
常連の皆さま、生意気をしてすみません。。
壁の品書きの一例はこうだ(カッコ内は筆者註)。
とんやき(大腸)、きもやき(レバー)、すじにく(横隔膜のさがりを取り去ったところ)、さがり(横隔膜の腰椎側の一部)、ちくわ(大動脈)、しんぞう(心臓)、たん(舌)、はらみ(横隔膜の肋骨側の一部)、こめかみ(頬肉)、なんこつ(喉)、みの(胃袋)、てっぽう(直腸)などなど。
串焼きは、いずれも2串からの提供となる。
串焼きのほかには、この店の新しい名物である、豚のもも肉を使った串かつがある。ソース味、おでん出汁にくぐらせた味噌味、それから秘伝の「てり」の3種の味で楽しむ。こちらも2串から注文できる。
さらに、名古屋といえばコレ。味噌おでんの鍋には、うまそうなタネが浮かんでいるではないか。たまご、コンニャク、バーナーで炙った焼き豆腐、牛すじ、魚の練り物を揚げた赤棒などが、見るからに濃厚な味噌仕立ての鍋の中で、今か今かと出番を待っている。
私はまず、とんやき、きもやき、かしら、さがり、ちくわ、たん刺しを注文した。
そうして、焼き台の前に立って、団扇で炭火の火勢を強める上野さんの、昨今ボディビルで鍛えているという逞しい上半身を眺めながら、赤星を飲む。
いい眺めだーー。
108年続く酒場の矜持
赤星を入れたのは5年ほど前だと、串物を焼きながら上野さんが教えてくれる。
「その頃はまだ、赤星というブランドを知らない人も多かったのですが、今ではもう、赤星ばかり出ますよ(笑)」
開店時刻に1人、ほどなくしてまた1人。開店後30分もすると、カウンターには5人、奥のテーブル席にも3人という具合に、店は徐々に活気を帯びはじめる。
とんやきは、豚の大腸だから、こってりとしたモツ感を出してくるものとばかり思っていたが、口にしてみると実に軽い。焼き目のかりっとした食感と、「てり」のうまさで魅了する。
そこへ、薄いピンク色した、清楚な雰囲気のたん刺しが出た。
口にしてみると想像に違わず質素で上品、串焼きの合いの手に最適である。赤星は、いよいようまい。
次なる串はきもやき。レバーですな。
これがまた、実に新鮮、臭みなく、口の中でほどけるように溶けていき、「てり」のほどよい甘さとあいまって、絶妙の味わいを口中に残すのだ。
開店と同時、いや、その少し前には店にやってきていたこの日最初の常連さんは、先代からのお付き合いのようだ。
「先代のオヤジさんは私の高校の先輩なんだけどね。伝説の番長ですよ(笑)」
焼き台の後ろに飾られた先代の写真が目に入る。どんな人だったのか。
上野さんは、昔は店主も客も、今より荒っぽかったと言う。
「うちの店は食べた串の本数で勘定をしていたんですが、昔のお客さんの中には、串を足元に落として知らんぷりしようとする人もいたんですね。他の客が、さっきの客、串をごまかしていたぞと知らせると、うちのオヤジは、そんなことはわかっとる、倍づけにしておいてやった、なんてことを言う人でした」
わかるなあ。私なんぞの若いとき、街の酒場には気の荒い人がたくさんいたし、マナーがなっていない人もたくさんいた。大酔っ払いも少なくなかった。その一方で、店のオヤジも、おっかなかったんだ。迷惑な客がいれば、遠慮せずに帰らせる。そうやって店を守る。
ズルをするヤツとか、やたらと威張るヤツを許さなかったね。酒場じゃ、みんな同じ。自分だけ特別待遇ということは絶対にない。守るべき店のルールは、オレがつくる……。それを体現している酒場のオヤジというのが、いたものです。きっと、上野屋本店の名物主人であった先代は、そういう人だったのでしょう。
その気風はきっと今に受け継がれている。そうでなくては5代も続かない。そんな気持ちで、先代や先々代から受け継いできたものは何か、上野さんに訊いてみた。
「オヤジと僕は、性格は似ていると思うんですよ。あと、人に任せないところとか、店を大きくしようとは考えないところかな」
不意を突かれてグッとくる。長らく酒場巡りをしていると、こういう場面にときどき遭遇する。さりげない話の中から、気持ちを揺さぶられるようないい話が飛び出してくる。
勢いで家業を継いだという上野さんは今も、平日は店の2階に泊まり込んでいるという。
特製の豚丼を出すランチ営業をこなしながら、毎日の仕入れや仕込みを、手を抜くことなくしっかりやるためには、そうするよりほかない。その地味で実直な積み重ねがあって初めて、108年続く酒場を守り抜くことができるのだろう。
「名古屋100年酒場」のありがたさ
「ここの大将に赤星を勧めたのは私です」
とおっしゃるご機嫌の常連さん。早くからお見えになって、飲むは赤星。お代わりも赤星。ここの赤星はもちろん大瓶なんだが、その大瓶の赤星を、2本、3本、やややや? すごいぞ、この人は、と見ているうちに、4本、5本と飲むのだ。
カウンターに居並ぶ常連さんたちは、背後にある冷蔵庫から自分でビールを取り出すシステムなのだが、あまりにちょくちょくお代わりに立つので、さすがの私も驚いた。
冷蔵庫を見ればわかるのだが、この店、ものすごい赤星飲みがいる。
その間にも私は、肉のうまみに柚子胡椒のアクセントが絶妙なかしらを味わい、さがりには上野さんの言うとおり、卓上のガーリックパウダーをふって食べてみる。
味わい深く、パウダーの風味も軽快で、これも文句なし。
いつしか編集Hさんをはじめ取材隊も飲みモードに入り、私もいよいよ勢いが出る。
コリコリとした食感が心地いいちくわを食べつつ2本目のビールを空け、酒を自家製レモンサワーに切り替えて、みそおでんに突入。
濃厚な牛筋に酔い、「てり」で仕上げた串かつに、うんうんと何度も頷く。
何を喰っても、何を飲んでもうまい。そういう店だね、この老舗は……。
常連さんたちに挟まれながら、私はなんともシアワセな気分。気がつけば、開店前から飲み始め、そろそろ午後8時。おいおい、飲み過ぎじゃないのか?
そうは思いつつも、取材隊のテーブルから赤星の追加注文が入ったタイミングで、私は燗酒をもらってしまう。湯せんで燗した大関だ。「上野屋本店」と名の入った徳利で供される。これが渋いのだ。
初めての店なのに、なんだろう、この居心地の良さはーー。
いい具合に酔いが回った頭で、懐深い「名古屋100年酒場」のありがたさを、繰り返し繰り返し思うのであった。
(※2024年5月20日取材)
取材・文:大竹 聡
撮影:須貝智行