「赤星」の愛称で親しまれるサッポロラガービールを訪ね歩く酒場連載も、今回で84軒目。思えばずいぶん多くの街に酒場を求め、赤星を発見し、すばらしき憩いの時を過ごしてきたものです。そしてこのたび向かいますのは、酒場好きの間で評判の街、大塚です。
大塚といえば、以前取材した、北口の銀の鈴通り商店街にある「中華居酒屋 千の香」が記憶に新しいわけですが、バックナンバーを振り返れば、あれは2021年の暮れの話。早いもので、もうかれこれ2年が経とうとしております。
この日、我々100軒マラソン取材隊が訪ねましたのは、反対側の南口。巨大な破れ提灯と縄のれんの、それはそれはシブい構えの老舗「富久晴」です。
大塚最高。富久晴最高。
店内はカウンター1本。変則コの字、いや、つの字とでも呼びましょうか。ともかく、店の人が作業をするスペースを取り囲むカウンターのみのお店です。
私は、入ってすぐの1席に座りましたが、そこからだと、店主越しに向こう側のお客さんと対面する恰好になる。目配せをするわけではないが、いや、どうも、と目線だけで挨拶を交わしたいような気分になります。
「赤星、ください!」
「はいよ」
まず、それだけ言って、店内を見渡す。
10月の上旬、土曜日の午後です。時刻は3時半を回ったところ。開店に間に合うようにと思ってやってきたのだったが、店はすでに開いていて、お客さんの姿もあった。
店内に1台あるテレビでは土曜競馬中継が流れている。ちょうど、メインレースの締め切りが迫る時刻。馬券は、堅いところを少しだけ、仕込んであった。
いいぞ、いいぞ、赤星飲みながら競馬も打てる。大塚最高。富久晴最高。このオヤジ、最初の1杯を前にしてすでに大いに盛り上がっているのだった。
事前にこの店の下見をしていてくれたのは、100軒マラソン取り仕切りの編集Hさん。
「赤星を頼んだら、にら玉も注文してみてください。おもしろいのが出てきます」
そう耳打ちされて、黙ってはいられません。
「にら玉、それから、たん塩2本ください」
店主が威勢のいい返事をくれて串を焼き台に乗せる。それを見ていると、出てきましたのが、にら玉。ニラの卵とじではなく、湯掻いたニラに卵黄がひとつ、のっかっている。おお、これを混ぜながら食べる趣向ですな。
と思っていると、店のもう一人の兄さんが、
「薄く味はついてますが、これ、お好みでどうぞ!」
といって、調味料の瓶を置いた。そう、味の素だ。
懐かしいねえ。味の素をちょっと振って食べる。それは、昔の我が家の食卓でもしょっちゅう見られた光景でした。
たとえば漬け物。漬け物専用の鉢から小皿に取り分けたキュウリなり、白菜なりに、まず、パラパラと味の素をふり、そこへ醤油をかけて、はい、おいしい。そういう感じで、祖母も父も、母も、兄も、そして私も、漬物を食べてきた。
いつから、あのパラパラをやらなくなったのか記憶は定かでないが、高校時代、昼休みに学校を抜け出して食べに行った中華屋さんでチャーハンを頼むと、おお!あの白い粉はなんであるか? といつも疑問に思った魔法の粉の正体は、いわゆる化学調味料の類であった。
後年になってそれを知るに及んで、なるほどオレはガキの頃から高校時代という人生最大の食欲期にも魔法のパラパラによって旨さを教えられてきたのだなあと、なぜか感慨深かかったのを覚えている。
そして今、にら玉にパラパラとふり、醤油をほんの少し……。よく混ぜて、口へ運べば、ああ、旨い。文句ないね、とひとり呟くのである。
なんとも居心地のいい空間
赤星をぐびりとひと口。それから焼きたてのたん塩を口へ入れ、噛む。表面の塩気と中からじわりと出てくる脂の旨みが口の中に広がる。
やきとんの味変用に出される味噌だれとねぎ塩を試してみると、これがまた、抜群にうまいではないか。
たん塩を噛み締めながら、さあ、そろそろだなと見上げれば、店内テレビでは今まさに、スタートを切った。
この日のメインレースはサウジアラビアロイヤルカップ。今年デビューしたばかりの2歳馬のGⅢ競争。馬の実績も少ないことから、どう選んだらいいのかよくわかないのだが、この時期、人気になる馬は、年末のGⅠへ向けて早くから準備のできている有望馬と見ることができる。
つまり、穴を狙わず、確実なところで決まるとみて、大きく間違ってはいない。それに、今年は出走が9頭で、有力馬は概ね3頭に絞られそうだから、馬券の買い方もまた絞られてくる。
だから安心して見ていたのだが、結果は3番人気と1番人気の馬連で決まり。払い戻しの倍率は5.6倍。私も難なくこの馬券を拾うことができた。配当は低いが、それでも気分はいい。
私の目の前、カウンターの裏側には、煮込みの鍋と、燗付けのための胴壷がある。今年は暑い時期が長かったから、10月に入ってやっと涼しくなったばかりなのだが、それでも、もう、燗酒と煮込みがほしくなるから不思議なものだ。
その前に、串ものを追加する。
赤星ビールの喉ごしを楽しむための新規の2本は、なんこつのタレ焼き。豚の食道のあたり、コリコリとした骨の歯ごたえもよく、もつ焼きを食べるときには欠かせないと思う。
いやあ、なんとも居心地のいい店だなと改めて店内を見渡すと、まだ早い時刻ですが、次々にお客さんがやって来る。ざっと見たところ、常連さん含めこの店にすでにお馴染みの人が半分くらいいるように見える。
隣にいたお客さんに、お近くですか、と声をかけたら、男性のおふたり連れ、ともに、近くに住む友人同士とのことだった。
「大塚は、チェーン店が少なくて、個人経営のいい店が多いんです。池袋は隣街ですけど、あまり行かないですね。大塚なら、歩いて何軒もいい店に行けますから」
なるほどね。わかるな。土曜日の午後の、この居心地だ。私などの住む多摩の田舎では、なかなかこの風情の店には巡り会わない。
「こちらは、もう長くやってらっしゃるんですか?」
焼き台に向かっているご主人に聞けば、なんと、創業から73年目。お祖父様が開業して現在のご主人である青木武さんは3代目にあたるという。そして、お隣の、もうひとりのスタッフは、青木さんの弟さん。つまり、代々の家族経営で、ずっと大塚に店を構えているということなのです。
「このビルが建ったのが、弟の生まれた年だから、43年前です」
ああ、なるほど。どうりで風格があるわけですな。43年前と言えばこの私だって初々しい高校生であった頃。思えば遥かな時間が過ぎております。
シンプルな湯豆腐がこれまた美味
おいしい煮込みが出た頃、写真撮影も一段落したカメラのSさんもカウンターに席をいただき、1杯やることした。
店に入ってからかれこれ1時間近くが経過しています。お客さんたちには、青木さんが事前に声をかけてくださっていて、みなさん、撮影に好意的で嬉しい限りです。
「赤星を置いたのは10年くらい前からですね。評判はいいですよ。今は、本当によく出ます」
私の座った場所から冷蔵庫が見えるのだが、ここしばらくの間だけを見ても、そこから出ていく瓶ビールは赤星ばかり。非常に勢いがいいのです。
編集Hさんも席に着いたので、我等取材隊のカウンターには3本の赤星が並んでいる。いい眺めです。私はここで、趣向を変えて燗酒にし、つまみに湯豆腐を頼んだ。秋の風情を満喫するのです。
この、なんともシンプルな湯豆腐がまた美味で、燗酒2本と1人前の湯豆腐はあッという間になくなった。
気がつけば背後の縄のれんの向こうは宵闇の中。お客さんも、ひとり帰ってはまた次の人という具合に入れ替わり、ちょっとひと段落ついた感も出てきた頃合いだ。
新しくお隣に見えたお客さんから、この店のレバーは食べておきなよ、と教わったのは写真のSさんだったが、それを小耳に挟んだ私はさっそくレバーを注文した。
お腹も満たされたところで、さっぱり〆ようと頼んだのはレモンサワーだ。
「はい、これもお好みで」
ポッカレモンの瓶が横に置かれた。酸っぱさが足りない場合はお好みでどうぞ、ということなのだ。
嬉しいねえ。そう言われると足さずにいられなくなるのが人情ってもので、私も、日ごろ自宅でレモンサワーをつくるときのような気分でポッカを足した。
新規で入ってくるお客さんの最初の注文は、本当に、赤星ばかり。すごいぞ、これは。赤星、売り切れるぞ……と思いながら冷蔵庫のガラス扉の向こうをチェックしていた私ですが、ああ、ついにその瞬間を見ることになった。
赤星、品切れです。
お見事、富久晴さん。また、土曜の午後に、お邪魔いたします。
(※2023年10月7日取材)
取材・文:大竹 聡
撮影:須貝智行