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100軒マラソン File No.76

神田のガード下に佇む「しぶいおでん屋さん」の、ありがたい味

「なか川」

公開日:

今回取材に訪れたお店

なか川

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※撮影時以外はマスクを着用の上、感染症対策を実施しております。

サッポロラガービール、愛称“赤星”を飲める店を訪ね歩く(走る?)当企画も、今回を持ちまして76回目と相成ります。

どうせやるなら100軒回ろうやと大見得を切って始めたときは、ちょっと洒落みたいな感じもあったわけですけれども、あちらに一軒、こちらに一軒と訪ねるほどに素晴らしい店が見つかるもので、酒場通い40年のベテランを自負するワタクシも、毎度毎度、目を開かれる思いをしております。

前回前々回は、神戸まで遥かに出張っておいしい一杯をいただいてきたところです。

神田のガード下に佇む「しぶいおでん屋さん」の、ありがたい味

そしてこのたびは、東京は神田。下町のど真ん中へと目を向けまして、 ワタクシが15年来通い続ける、一軒の、しぶいおでん屋さんを訪ねます。

見ただけで嬉しい気持ちになる料理

神田のガード下に佇む「しぶいおでん屋さん」の、ありがたい味

神田駅から、東北新幹線の高架に沿って続く商店街を岩本町方面へ歩いて行くと、左手のガード下にきれいな暖簾が見えてくる。「おでん なか川」。

引き戸をがらりと開けると、温かい光に満ちたカウンターで、ご主人の中川尚さんが迎えてくれます。

「はい、いらっしゃい」

神田のガード下に佇む「しぶいおでん屋さん」の、ありがたい味

そう言って、中川さんはにっこり笑う。いつもの笑顔。いつもの挨拶。その表情、声音のやさしさに、訪れた私はいつも、ホッとした気分になる。この、ほんの一瞬が、ひとつの店に通う最大の楽しみかもしれない。

カウンターの上には、各種のおつまみを盛った皿が並んでいる。2階にもひと間、グループ客を受ける部屋があるが、1階のカウンターは、ぎゅっと詰めても10席余り。その1席分のスペースに、おしぼりと箸をきちんと並べてある。

神田のガード下に佇む「しぶいおでん屋さん」の、ありがたい味

皿の料理を見ていくと、アジの南蛮漬け、カキの揚げたの、桜エビ、シイタケ煮、切り大根のハリハリ、大浦ゴボウとニンジンの煮たの、魚卵はコマイの子、キンピラにクワイ、白子煮、サバの一夜干し、セイコガニとホタテなどなど。

どれも、うまそうだ。質素なのに華やいで、見ただけで嬉しい気持ちにさせてくれる。

「このお料理、見つくろって、盛ってください。それから赤星をお願いします」

神田のガード下に佇む「しぶいおでん屋さん」の、ありがたい味

「はいよ、赤星。お客さんの中にも、お、赤星があるのかいって言う方がいらっしゃいますよ。アタシも、このビール、うまいと思う」

カウンターの皿から菜箸で酒肴をとりわけながら、昔の話も聞かせてくれた。

神田のガード下に佇む「しぶいおでん屋さん」の、ありがたい味

「昔の話。新婚旅行で北海道に行ったんですよ。そのとき札幌で飲んだビールがおいしくてねえ。それからサッポロが好きになったの。その、ずいぶん後、この店を始めてからですけど、ゴルフの帰りに上野駅でたまたま飲んだときも、おいしくてねえ。瓶ビールはこれに変えようって、そのとき決めました(笑)」

どうせ食べるなら、おいしいほうがいい

神田のガード下に佇む「しぶいおでん屋さん」の、ありがたい味

おせちのように豪勢な皿からキンピラをつまみ、赤星をまたひと口。この日最初の1本が、やたらとうまい。

クワイの煮たのは、穏やかな味付けで、特有の軽い苦みも爽快、ビールによく合う。カキは軽く揚げた後でタレに煮絡めて味をつけている。

コマイの子の煮たのは、今、手を付けるか、後で日本酒を燗にしてもらったときにつまむか、一瞬迷って、すぐさま手を付ける。これも申し分ないのだ。箸が止まらなくなって、菜の花で一休みすることにした。

神田のガード下に佇む「しぶいおでん屋さん」の、ありがたい味

ここは、おでん屋さんである。が、魚介もおいしい。

ご主人は、今年還暦を迎える私のさらに20年先輩だけれど、豊洲の河岸へ通い、自らネタを吟味して仕入れてくる。そして、一夜干し、漬け、酢締めなどを仕込むだけでなく、少し熟成させたほうがうまい魚種については、そのタイミングもはかる。

先に紹介した酒肴各種はもとより、メインのおでんの仕込みもあるわけだから、毎日、まったく手を休める暇がないのだ。

神田のガード下に佇む「しぶいおでん屋さん」の、ありがたい味

少し品数を減らす工夫をしてもいいのではと言われることもあるが、やる以上はやはり、しっかりしたものをお出ししたい――。以前、カウンター越しにそんな話を伺ったこともある。

魚も、見つくろってもらうことにし、そのタイミングで、同行の編集Hさんも飲食に合流、赤星を追加する。皿に盛られた魚を、中川さんが説明してくれる。

神田のガード下に佇む「しぶいおでん屋さん」の、ありがたい味

「ミル貝、ヒラメの昆布締め、マグロの赤身、締めサバ、タコ、それから水貝。水貝というのは、昆布出汁に塩を入れて、アワビの刺身にかけたものです」

食感や、香り、味わいの異なる魚介を、ひとつずつ口へ運ぶ。ここで酒を、赤星から、灘の名酒、白鷹に変える。

白鷹は、この店の主力のお酒で、1月13日の取材ということもあって、まだ、正月用のガラス徳利が用意されていた。この瓶を、そのまま湯を張った鍋に置き、癇をつけてもらう。

神田のガード下に佇む「しぶいおでん屋さん」の、ありがたい味

ガラス瓶が鍋の中で熱くなっていくのをぼんやりとみていると、こちらの身体もポカポカと温まってくるようだ。店には、夕刻から、ひとり、またひとりとお客さんがやって来ている。

水貝が格別だ。煮ても焼いてもうまいが、この味、歯ごたえ、酒との相性、どれをとっても、文句のつけようがない。ヒラメの昆布締めにしても、アジの南蛮漬けにしても、中川さんが加えるほんのひと手間が、うまさを引き出している。

こちらの店に通う他のお客さんたちは、そのひと手間の効果に魅了されているのかもしれない。

神田のガード下に佇む「しぶいおでん屋さん」の、ありがたい味

どうせ食べるなら、おいしいほうがいい。ねえ、そうでしょう? と、中川さんの料理は、そんなふうに話しかけてくる気がする。

この汁だけでも、つまみになる

おつまみの皿も、刺身の皿も、色とりどりでにぎやかだけれど、おでん鍋の中は、さらにわくわくさせてくれる。カウンターにおかれたおでん種の品書きを書き写すと、こうなる。

つみれ、たこ、厚揚げ、はんぺん、ちくわ、冬がん、ふき、白滝、えび芋、ねぎま、やりいか、玉ねぎ、えび巻、がんもどき、玉子、袋、魚すじ、とーふ、人参、きゃべつ巻、ゆり根、わかめ、ゆば、ねぎま、せり、さつま揚げ、ばくだん、椎茸揚、牛すじ、大根、じゃがいも、こんにゃく、銀杏、茎わかめ、よもぎふ、ごぼう巻、白子。

神田のガード下に佇む「しぶいおでん屋さん」の、ありがたい味

その日の仕込みによって、品は変化することがあるけれど、とても試し切れないくらいの種類があることは事実。椎茸揚、つくね、えび巻、ばくだんなどは、中川さんの手づくりだから、このあたりは外せないし、今の時期、セリもいい。それからえび芋、あとは、そうそう、白子も欠くべからざるものと思われる。

出汁は、あっさりとしていて、お代わりをしても飽きないし、汁で酒を飲むことが好きな私などは、この汁だけでも、つまみになる。

神田のガード下に佇む「しぶいおでん屋さん」の、ありがたい味

こぶりの車エビを練り物で巻いて揚げたえび巻は、私の好物のひとつ。とても贅沢で、満ち足りた気分にさせてくれる一品だ。それから、特筆すべきは、この季節の白子。おでん鍋に放り込んだ白子は、さしたる時間を経ることなく食べごろになる。

口に入れるとふわりとほどけ、うまみととろみが広がっていく。焼いて塩して食べるのもいいけれど、おでんタネにするとまた別の面が見えてくるようだ。白子でとろりとしたところへセリを入れる。ああ、うまいなあとしみじみ思う。

神田のガード下に佇む「しぶいおでん屋さん」の、ありがたい味

酒のお代わりをもらう。編集Hさんは赤星を追加する。

店は、この年明けで、32年目に入った。「よく続きましたね」と中川さんは事もなげに言う。そして、「お客さんも、ずいぶん変わりましたね」と続けた。

誰にも邪魔されない贅沢な時間

神田のガード下に佇む「しぶいおでん屋さん」の、ありがたい味

以前、会社勤めをしていた中川さんが店を始めた当初は、かつての仕事関係の方もよく見えたらしい。さらには、店のある神田界隈の会社の方々、地元にお住まいの方々、さまざまなお客さんが通ってきた。

「最近は、女性で、おひとりでお見えになる方もいらっしゃいますよ」

ひと手間かけたおいしいつまみを楽しみにやってきて誰にも邪魔されない贅沢な時間を過ごすのに、男も女も関係ない。みんな自分だけの時間をゆったりと過ごして、次の日に備える。それはちょっとした贅沢であり慰労である、自分へのご褒美だ。

神田のガード下に佇む「しぶいおでん屋さん」の、ありがたい味

寒空の下に出る前に、熱燗をもう1本だけ。それを楽しむ間に、かけめしをいただこうと思う。

かけめしとは、こちらの締めの一品で、ご飯に白ゴマをふり、三つ葉をのせ、マグロの刺身やアジの漬けをのせ、ワサビと海苔を加え、そこに、少しだけ煮詰めて味を濃くしたおでん出汁をかけた、独特の出汁茶漬けである。

神田のガード下に佇む「しぶいおでん屋さん」の、ありがたい味

嬉しいのは、椀に添える小皿の漬け物に、削りたてのかつお節をふりかけてくれること。ただでさえ、うまいお新香が、カツブシと醤油によって、さらに香り、味を増すのだ。それをポリポリ齧りながら、上品な出汁のかかったメシをすすりあげる。

この味をなんと言うべきだろうか。それはもう、ただひと言、ありがたい味、だろう。

神田のガード下に佇む「しぶいおでん屋さん」の、ありがたい味

(※2023年1月13日取材)

取材・文:大竹 聡
撮影:須貝智行

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