はなはだ唐突ではございますが、向島というのは、縁遠い街でございます。 街の名を聞いてまっさきに思い出すのは、花街ということ。それくらいのことは頭に入っている。というよりは、その程度のことしか入っていない。つまり、向島のなんたるかは、まるで知らない。 そんな私が向島の料亭ならぬ酒場を訪ねましたのは、9月半ばのある土曜日のこと。曳舟駅という、実にどうも、渋い駅からぶらぶら行って巡り合いましたのが、「かどや」という一軒です。
■お座敷遊びはあきらめて
墨田区向島。地図を見ると、浅草の近くです。歩いても遠くない。隅田川の向こう側だから向島なんでしょうか。曳舟という呼び名もいいですね。川に浮かべた小舟を丘から引いて、荷物やら人やらを運んだんでしょうか。そういう、はるかな昔の人の営みを思わせる地名というのは、無理に町名にせずとも、変わらず残していきたいものです。
さて、向島だ。私はかつて、こちらの、伝統ある料亭にお邪魔をしたことがある。もちろん客として足を踏み入れたわけじゃない。
では、何かというと、取材です。お香の取材でやってきた。料亭の入り口に漂う、得も言われぬ香りの元について、話を伺いにきた。京の老舗の、それも、ずいぶんとお高いヤツを使っていた。そんなふうに記憶している。
その折り、オレにもこんな料亭で遊ぶことはできるのだろうかと、分不相応なことを考えた。思いが浮かぶと訊かずにおれない性分だから、店の主人に尋ねたら、毎月5000円積み立てて1年分たまったら、友達5,6人でおいでなさい。お座敷遊びができます。とのことだった。
月5000円の12ヵ月は6万円。5人集めたらトータル30万円。それくらいの軍資金があれば部屋借りて、料理と酒と芸者さんの1人、2人。そんなところなのだろうか。
若い私は、それくらいなら、いずれ必ず、なんて軽く考えたりしたものでしたが、その夢、齢53の現在まで叶えられていない。
当り前だね。ひとたび飲みに出た暁にゃ、帰りの財布に余裕があった試しがない。いつもすっからかん。素寒貧の酒飲みは、生涯料亭に遊ぶことはないでしょう。
いたずらに長い前置き、毎度のことながらすみません。やっきてきたのは「かどや」さん。居酒屋さんですよ。
店を開いて今年で13年目。店主は都内の料理屋や鮨店で修業をし、フグの調理免許も取得している。もうひとりの若い板さんはホテルで洋食を学んだ人だから、チキングラタンなどオリジナルの洋風つまみも開発している。
そして、驚くべきは、値段である。店では瓶ビールは赤星を入れているが、この中瓶が450円で、それより値の張るつまみを探すのが難しいというくらいに、安い。
たとえば、メニューで目に付くハムカツ、300円。おっと私の好きなニンニク揚げなんざ、250円。それでもって、サンマの塩焼が300円ときた。たまりませんな。
さっそくビールの栓を抜く。
■向島は昼の3時
店が赤星を入れたころ、周囲に、この瓶ビールを飲ませる店はそうそう多くはなかった。
だったら、ウチでやろうじゃないの……。万事、よそ様とは違うことを好むというご店主が、そう判断したのだと、店のお運びをテキパキこなす店長さん(女将さんと呼ぶべきか)が説明してくれました。
いいですねえ。よそがやらないことをやろうじゃないの。この姿勢が、午後3時から午前2時までの11時間営業と、まさしく破格のお値段を実現させる心意気というものです。
そして、うまい。ここが大事。
毎度渋い写真を撮ってくれるSさんと、段取りにぬかりのない編集Hさん。ふたりとも、うまい酒肴がなにより好きだから、撮影・取材を始めた土曜日の午後2時半から、実はもう、飲みたい、喰いたいの欲求が漲っている。
まずは乾杯。3人で箸をつけるお通しがわりは、刺身のおまかせ3点盛り。
実はこの日、土曜日ということもあって、開店時間の午後3時少し前から、待ちきれないお客さんの姿が見え始め、私たちがビールの栓を抜く時にはすでに、カウンターでは2人のお客さんが飲み始めていた。
そして、撮影のため、あいだにお邪魔した私の目は、そのお一人が頼んだ3点盛りに引き付けられていたのである。
午後3時から深夜までの営業だから、仕入れもぎりぎりになる。しかし、こちらのご店主は一切手を抜かない。その日のいいものをぎりぎりの時間になっても仕入れてくる。だから、刺身の盛り合わせも鮮度自慢なのだ。
この日のひと皿は、鯛の湯引き、サンマ、ツブ貝の3種。すばらしいのですよ、この刺身の鮮度が。
まずはサンマを口に運ぶ。柔らかで旨みのあるサンマが昔ながらのラガービールに実によく合う。理由はよくわからないのだが、熱処理したラガービールにだけ残っている懐かしさが、そう思わせるのかもしれない。理屈はともかく、ただただうまい。
皮目を湯引きした鯛は淡泊なのに香ばしく、ツブ貝の飽きない食感とともに、午後3時過ぎ、酒好きの舌を喜ばせる。
■「この店を知らないと損します」
こんな店、家の近くにあったら、通うよなあ……。
誰からともなく、同じセリフが飛び出してくる。
そう、自らの酒ライフを顧みますれば、明るいうちから飲みたい午後がある一方で、よその店が閉まった深夜に飲みたいこともしばしば。そう、こちら、夜更けに寄る店としても最適という気がする。
賑やかに飲んだ晩の帰り道。店の前を通りかかると、「大衆酒場」と染め抜かれた暖簾がまだ出ている。
おっ、やってるな……。
もう1回、瓶ビールで仕切り直し。締めはピッチャーで頼めるサワーもいいし、日本酒もいい。十四代、田酒、飛露喜、而今など、入手困難な銘酒がいつでも飲める。しかも格安価格で提供している。
さすがご店主、仕入れの鬼だ。
てなことを思ううちに出てきたひと皿に、
おーっ!
と、3人から声が上がった。
何が来たのか? ハムカツですよ、ハムカツ。でかい!
これも店主の、「よそが薄いハムカツなら、ウチは分厚くいってみよう」という心意気のなせるわざ。軽やかな衣をまとった分厚い分厚いハム。うまいんですな。それでもって300円。
ハムカツに目のないカメラのSさんの手がさっそく伸びた。
たまらんな。半ば降参しかかったところに打ち込まれたのは、なんと鮎です。子持ちアユの塩焼。季節なんですな、子持ちを喰うなら秋口が旬なんです。
胴体を輪切りにしてもらうと、中は卵でびっしり。このほくほく感は比類ない。初夏の稚アユに始まって、旬の塩焼に一夜干し、さらには煮浸しなどなど、いろいろ楽しんできたわたくしですが、子持ちアユがこんなにうまいとは知らなかった。
これが、驚愕の450円。
「この店を知らないと損します」という店舗紹介の常套句を私はほとんど使ったことがありませんが、このときの私の正直な感想がそれだった。
■気が付けば外は夕闇
さあさあ、ビールをまたまたもらいましょう、と勢いがついて、つまみを魚からまた肉へ変えてまいります。
頼みましたのは、モツの刺し。ガツ、タン、鳥皮、コブクロの刺し。ゴマ油を風味づけにつかった醤油ダレに半身をつけたモツは、見るからに新鮮で、早く口へ入れたいと、モツ好きの私を急がせる。
さっと湯がいたモツの上にはたっぷりの葱。皿の端には、おろしニンニクに和辛子がたっぷり。これらを小皿の上で混ぜて口へ放り込むと、予想を超えるうまさである。分厚いタンやころころのコブクロの食感も申し分ない。この日の朝に捌かれた新鮮そのもののモツのうまさよ。
こうなるともう私の酒はとまらない。ふと店内を見渡せば、最初に訪れていたお客さんの姿は消えて、2回転目に入っている。
これから閉店まで何回転するのか、初訪問の私には予想もつかないが、ただひとつ思っていたことは、
お店にとってお客さんは何回転と数えるかもしれないが、オレが今夜もう1度この店の暖簾を潜ったら、打者一巡ならぬノンベ一巡ということになるのだろうか?
という、途轍もなくどうでもいいことなのだった。
外は、ゆっくりと暮れていく気配。これ以上居座っては、これから詰めかける新規のお客さんの邪魔になる。もう一巡する根性があれば今夜再び訪れることとして、私たちは店を出た。
ぶらぶら行くと、風格ある料亭の玄関先で、品のいい下足番のオジサンが、客の到着を待っている。そこへ、3人の芸者さんがやってきた。
ふー、いいもんだなぁ。
夕闇せまる向島。秋の味覚でおいしく飲んだその後、私の足は、隅田川を目指す。川沿いの夜風を浴びながら、この日の2軒目をどこにするか、ゆっくり検討することとしたい。
取材・文:大竹 聡
撮影:須貝智行