昔から、酒場へ行くときは、下から目線です。そう、上から目線の反対。なぜかはよく知らないけれど、自分より年上の人が切り回している、あるいは、そういう世代がお客さんの中心、という店へ伺うのが好きで、50代になった今もあまり変わらない。50代の私が下から目線で見上げたい酒場とはつまり、けっこうな老舗であることが多い。
■ため息の出る店構え
ということで、ふっと思い浮かびましたのが、今回お邪魔するお店。神田の「三州屋」さんであります。
夏の終わりの土曜の昼。神田駅に降り立ったのは、午前11時50分。早いよ!
なにしろ、毎晩午前様の身。特にこの週は、いい年こいて妙にはしゃいでしまったから、かなりくたびれている。それでも、見慣れた路地をたどり、たっぷり2間はある間口の引き戸を目指せば、妙に気持ちが浮き立つ。
割烹の味
大衆の値
と染められた暖簾が嬉しいじゃありませんか。大衆割烹であり、お食事処であるのは先刻承知。今さら感動するのもナンなんですが、来るたびに思う。
ああ、ここは、ありがてえな。
入る前から、うまいのが、わかってる。入る前から、いい感じであることが、わかってる。編集者、カメラマン、そしてただの酔っ払いであるところの私という取材隊は店の前に集合するや、しばし、ため息をついて店の構えを眺めます。
なにしろ編集さんはかつて、三州屋さんに、ひとかたならぬ世話になった身。近所に勤めていた若き日々、三州屋で飲み、三州屋で飯を喰ってきた人なのだ。
「いいねえ。構えに風情があるよ」
「たまんないですよね。暖簾がすべてを語ってます」
なんて会話をしている間にも、次々にお客さんが店内へ入っていくではないか。おいおい、まだ、正午でございますが、どういうことですか……。
訝りながら引き戸を開ける。
おおお! カウンターにも座敷にもテーブルにも、すでに、なかなかの数のお客さんが陣取っている。私たちは3人だし、写真なんか撮る算段もいるから、座敷のいちばん端っこになんとか席を確保した。
ああ、よかった。これなら隣近所に迷惑がかからない。そんなことを思いつつ顔を上げれば、そこからは店の全景が見事に見渡せるのだった。
なんだよ、これは。特等席じゃねえか……。
■塩っ辛い割り下に膝を打つ
昼時のこと、おいしい定食を求めて来ているとわかるお客さんがいる。
かと思えば、店内中央、白木のコの字カウンターには、お誘い合わせのうえですでに昼酒に突入するつもりの先輩方もいる。
女性のお一人客の姿も見えて、こちらはどうやら真っ昼間からすでに飲み始めている。その姿が堂に入っていて、恰好がいい。
以前にもお世話になった女将さんが忙しそうに立ち働いている。お運びの姐さんはほかに2人。昼時の繁忙時にはこの態勢で飯を食べる人、まずは酒を飲む人に対応するのだ。
その姿が実にきびきびしている。清々しい。また、みなさん、お綺麗な方ばかり。少しばかり年輩の諸先輩たちだって、割烹着姿もまぶしい女性たちの気配りや心遣いでもてなされて、嬉しくないわけはない。それは、50そこそこのわたくしも一緒だ。
ああ、やっぱり、三州屋はいいなあ……。
私に背中を向けているあのお父さんだって、そんなことを思いながら、鰯の煮付け定食を味わっているのではないだろうか……。
女将さんがやってきてくださった。
「お飲みのもは?」
「ビール、大瓶で」
まず出てきたのは、お決まりの赤星とドジョウの柳川。
「これはね、今朝、ウチで裂いたのよ」
たまらぬ匂いがしている。では、さっそく、やろうじゃないの!
本日もまた誰にともなく呟いて、ビールをコップにたっぷり注いでひと口。それから、柳川のドジョウと玉子をひと箸で巧みにすくってひと口。
割り下の味わいとドジョウの食感、玉子の甘い風合いが口の中でとろけていく。ビールをさらにぐびり。
割り下は、ああ、これこれ、と思う塩辛さで、ちょっときつい感じもするのですが、老舗蕎麦屋のつゆの味を好む者にとっては、思わず、膝を打ちたくなるうまさなのであります。
「塩っ辛いね、神田の味だね」
てなことを言うと、女将さん、にっこり笑って、ひと言。
「ね、おいしいでしょ」
聞けば、女将さんは先代の当時からの従業員だそうで、勤務歴は35年になるという。ちなみに生まれは浅草だとか。
「先代の奥様に可愛がってもらってね。それに、ここはお客さんがいいし」
そうなのである。神田という下町で、昼から飲める、と聞いて、ちょっとヘビーな酒場を思い浮かべる人があったら、それはちょっと違うのですよ。
■飯もうまけりゃ、汁もうまい
こちらは、店内ぴかぴか。従業員の方々はキビキビ。そして、お客さんたちは、見事なほど穏やかで、立ち居振る舞いのきれいな人が多い。
何も他の下町酒場がそうじゃないって、言ってるんじゃないんです。ただ、多摩っ子の私がこの神田の名店にやって来たときにいつも思うことが、そんなことなのだ。
「お店がきれいなのは、社長がきれい好きだからです。隅々まで掃除して、白木のカウンターも毎日磨くんですから(笑)」
女将はこともなげに言うけれど、この端正な店の顔は、やはり、努力の賜物だ。
さて、女将さんが当店自慢と推奨するマグロの刺身をいただきます。分厚く切ってあって気前がいいのは当り前、なにしろ品がいい。
それから、名物の鳥豆腐もはずせない。煮込みとは違ったあっさりスープの鍋仕立て。これは酒の途中に具をつついたり、汁をすすったりすると一層酒を進ませる“合いの手”みたいな一品になるし、もちろん、ご飯と一緒に楽しむ手もある。
いやいや、ここにある絶品の酒肴各種はすなわち飯に合うわけで、締めにおにぎりをもらうでもいいし、普通に白飯と味噌汁を漬物と一緒に出してもらうのも格別だ。
大衆割烹は、肴もたいへんうまいのだけれど、飯もうまいし、汁もうまい。
その伝統は、昭和24~25年からのこと。三州屋は銀座、六本木、新橋、飯田橋、蒲田、日本橋と、いろいろなところにある。確かなことはわからないが、発祥はたぶん神田だろう。
今は休業中の本店でスタート。今回お邪魔をした神田駅前店も昭和30年代には開店していたという。銀座も六本木も、みんな親戚筋とのことだ。
鮪をひときれ、それから鳥豆腐をひと啜り。柳川の残りの割り下も、ちょいと舐めれば酒肴になる。
赤星の飲みかけと、箸をつけた喰いかけの鮪の刺身が妙に絵になるのは、背景がすばらしいからか。
いつぞやなどは映画の撮影現場として提供し、俳優、監督、スタッフのほか100人ものエキストラがやってきたというこの店。たしかに、他では醸しだせない空気に満ちていると思う。
これぞ由緒正しき東京の酒場というものだ。
■塩焼きか煮付けか、それが問題だ
さて、そろそろ編集さんの思い出の味、銀ムツのあら煮をいただこうか。これは、どなたが食べても文句なしのうまさでしょうな。
「こんな店が近くにあったら毎日来るな」
旨いもの巡りでは数々の名店も珍味も知っているカメラマンが呟く。機材を車で運んでいるから本日アルコールは厳禁。そこで、白飯と浅蜊汁をとったら、酒肴の数品をおかずとして、実にうまそうに、あっという間に平らげた。
私はというと、秋刀魚の塩焼きでビールをもう1本にするか、鰯の煮付けで燗酒にするかで、先刻からずっと懊悩している。
普段からイージーな性格で、深く悩む対象をあまり持たない人間だが、昨今、うまいヤツを食べるのが難しくなりつつあるところの、焼き魚および煮魚の、さて、どちらを選ぶかとなれば、これは深刻な大問題である。
しばらく、考えて、あっさりと結論が出た。
この店のうまさに惚れてかつては通い詰めたという編集さんがいるのだ。両方頼めばいいじゃないか……。
昼から長居になりそうだが、これも神田の楽しみのひとつ。常連の先輩たちに負けない、きれいな酒を飲んで帰ろう!
取材・文:大竹 聡
撮影:須貝智行