JR中央線は中野を過ぎると、立川までまっすぐです。笑っちゃうほどまっすぐ。
アメリカ合衆国の地図を見ると、同じように州境がみごとにまっすぐ、というところがいくつもありますが、ありゃ、なんですかね。山だの谷だのがあれば、鉄道線路も州境もそれに沿うのが自然なことなのでしょうから、つまり、そういう障害がどこにもない、といことなのでしょう。
中央線の中野から立川。この区間、調べましたら明治22年に開業しているようなんですが、ということは、それ以前に鉄道計画ができたわけで、そのころ、やっぱり何もなかったのでしょう。鉄道線路敷設の障害になるもの一切ないという判断がつけば、えーい、これでいいや、とばかりに真一文字の計画図を作成したとしても、不思議ではない。
で、何が言いたのかというと、このまっすぐな線路の両サイドに、いったいどれくらいの飲み屋があるのかな、ということなのです。
私は暇なのか。そこまで暇じゃあないんですが、どうしても、そういうことが気にかかる。だから、赤星ビールが飲める店をまずは100軒歩いてみようと思い立ったわけですが、これね、ハタから見るだけの人には「バカだねえ」としか言ってもらえないけれども、実際に歩いてみると案外おもしろいんです。
ホウボウを飲み歩いてきたわたくしですが、知らない店はまだまだある。というより、行き過ぎる飲み屋のほとんどに、実は足を踏み入れたことがない。それが、現実だからこそ、まだ見ぬ1軒との出会いは貴重なのです。
■壁の品書きにまず驚く
例によってくだらない前置きが長くなっておりますが、今回降り立ちましたのは、阿佐ヶ谷駅です。高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪、西荻窪の4駅が、杉並区にある駅で、人気のエリアでもある。昔ながらの一角を残しながら、新しい店も続々できて、住民も新旧織り交ぜていろんな人がいる。それが、このあたりの特徴でしょうか。
長いアーケードの商店街をずんずん進んで目指しましたのは、地下鉄丸の内線の南阿佐ヶ谷駅方面。もうちょっとで杉並区役所というあたりで、アーケードからそれて細道に入ると、そこに「つきのや」という店がある。間口は広くないが、戸を開けて中に入ると、空間は奥へ長い。
逆L字カウンターの角に席をとって頼むのはサッポロラガービール、愛称「赤星」。大瓶が出てきますよ、嬉しいねえ。
さて、つまみは何にしようか。まずはすぐに出るものをと思っていると、カウンターの上の鉢に炒り銀杏と茹で落花生があるじゃないですか。私は両方とも、好物ですが、今回は落花生を頼む。
そうして、喉を鳴らすような塩梅で、勢いよくビールを飲む。喉を過ぎるビールが爽快さを胃袋まで届けてくれる。薄い塩味の茹で落花生は、最初のつまみには最適だ。
壁の品書きを見渡すと、種類がやたらと豊富だ。鮮魚から焼き物、揚げ物、見るからにうまそうなチャーシューは自家製とのことだし、焼きそばやチャーハンだってある。
魚はなんと、くさやも出す。しかも、定番のムロアジだけでなく、肝までいけるというサンマも出す。ほかにも、揚げ茄子とか小松菜の煮浸しなど、私のようなオジさんが喜ぶシブい小鉢もある。
目の前で魚をあざやかに捌く店主の森本集さんに聞くと、酒肴のうち、魚介が6割ほどという。つまり、新鮮な魚だけで売っているのではない。
たとえば人気の一品には、ハムカツや牛すじのどて焼きなど、腹っぺらしも、酒好きもまとめて楽しませる品々を取り揃えている。
「魚や野菜は、季節によって、また、日によっても手に入るものが違いますから、おすすめメニューは毎日変わります。その時あるもので、できるものを考えて、営業中も少しずつ変えていってます」
マグロ、ヒラメ、カンパチの皿がきた。これでまた、赤星をぐいっとやる。うまいよ。なんとも贅沢だ。
森本さんによると、この地に来て、今年で7年目。それ以前は4年ほど、お隣の高円寺の鉄道高架下で営業していたという。
さらにその前は、目黒区で定食メインのお店をやってたということで、現在もホールを担当する長尾加代子さんも、厨房のスタッフも、もうひとりのホールの女性も、当時からの仲間。みなさん和気藹々としている。
「今のお客さんは、40代の方が半分くらいでしょうか。でも、土地柄、若い人も多いですし、逆に、上になると、最高で90歳超えのお客さんもいらっしゃまいますよ」
聞けば森本さんは最近、競馬好きのお客さんに教わりながら、馬券も楽しむようになったとか。気が合いますな。今度ゆっくり春のクラシック予想に参ります。
■酒のお代わりを我慢できない
3月はお客さんの出足が遅いから早い時間は暇ですよ、なんて言っていたけれど、気がつけば馴染みのお客さんが次々に入ってきはじめた。
私はといいますと、目の前の大皿に盛ってあった茄子の揚げ浸しを頼み、これを契機に、日本酒を物色しだす。
実はこのお店でいちばん酒に詳しいのは長尾さんということです。お酒のソムリエというのか利き酒師というのか、そういう、ちゃんとした資格ももっていらっしゃる。
そこで、燗酒にすることを前提に、少し軽めのところから選んでいただいたのが、「月の輪」という銘柄。岩手の酒の純米吟醸。穏やかで、飲み口がやさしい。最初の1杯によく合いそうな気がしますね。
茄子の揚げ浸しが、また、いいんです。こういう、ちょっとしたつまみが、昨今とくに有難いのだが、この店では、若い人にも人気があるということですよ。
「地味なメニューですが、煮浸しとか揚げ浸しとか、うちで食べてみて、ハマるお客さん、いらっしゃいますよ。くさやも、うちで初めて食べたという人が、好きになったりしています」
ファストフードで育った世代は、野菜を軽く揚げてから煮浸しにしたものとか、ましてや、くさや、を好むとは思われないだのが、実際にはそうではないということなのだ。
つまり、うまいものは、うまい、ということなのでしょう。オジさんは安心するのであります。
さて、酒も入って、もう少しばかり、このお店のおいしい肴を探索してみたいわけですが、そこで目に止まったのが、1枚の品書きです。
「酢じめイワシと菜の花のすのもの」
ああ、いいですなあ。これは間違いなく、春だ。
さっそく追加しまして、口に運びます。
酢の爽やかさがイワシのうまみを引き立たせ、菜の花のほのかな苦味とよく合う。なんといいますか、センスのいい酒肴でして、こういうものが出てくると、酒のつづきを我慢するわけにはいかなくなる。
さきほどは岩手でしたが、今度はお隣の秋田県の、阿櫻という銘柄にしました。こちらは純米酒で、日本酒度が+10という、いわゆる辛めの酒なのですが、ほどよい燗にしてキレもよく、腰もしっかりしていて、たいへんうまい。
さてさて、編集Hさんと写真のSさんもそろそろよろしいようで、私も彼らと一緒のテーブルへ移ります。HさんSさんに赤星も追加。
新潟出身のSさんは、郷里の春を思い出すといって、ふきのとう味噌をご所望。もちろんいっときましょう。
■言葉にならないつぶやきが…
店内の雰囲気は、落ち着いていて、騒がしくなく、それでいて、適度な賑やかさが心地いい。ここなら、ひとりで、ふらりと飲みに行って、居場所がないような思いをすることもないでしょう。
つまり、覚えておいて、損はない、といいますか、知っておくと相当に有り難みのあるお店ということになりますな。
さて、ここいらで、少し甘く、とろりとする酒をと思い、石川の銘酒菊姫の本醸造にごり酒を、やはり燗でもらう。
日本酒はここで一段落。そこで赤星をグラスに再度注ぐ。水で中和していくべき頃合いなのだが、このタイミングでのビールがまた、爽快なのである。
そしてつまみは、ビールに合わせてといいますか、満を持してといいますか、カウンターで目の前に鎮座しておりました自家製チャーシューを切ってもらう。
付け合わせにネギを少々。皿の縁には辛子が塗ってある。見るからに瑞々しく、口に入れたらたちまちにしてほろほろと肉がほどけていくのだろうなと、想像がつく。
で、実際に、食べてみると、想像を超える感触なのである。
「これ、やばいねえ」
みんなの口からそんな言葉にもならないようなつぶやきが溢れた。なんとも言えない。私は赤星をまたひと口、ぐいと喉へ流し込む。
取材・文:大竹 聡
撮影:須貝智行