京浜東北線を使うのは、大宮の競輪か浦和の競馬の行き帰り。あるいは、東北からの帰路、大宮で新幹線を下りて、南浦和から武蔵野線で多摩方面に向かうときくらいである。
つまり、行きつく先でも帰りつく先でもなく、いつも、どこかへ行ったり帰ったりする途次に使う感じでしょうか。けれど、この電車に乗るときはいつも、途中下車を考えている。
十条か、赤羽か。昨今、流行ってますからね。
そういう駅で途中下車を考えているんだろ、お前は、と思う諸兄姉もおられましょう。けれども、違うのです。私が途中下車しようと、半ば心に決めているのはここ。埼玉県の蕨駅なのです。
わらび、と読みます。時間に余裕があるときには、まず、寄ります。
その蕨駅東口を出てしばらく。「㐂よし」の看板が見えてくる。こちら、看板にも暖簾にもやきとりとありますが、やきとんのお店です。
開店は午後5時。暖簾の出るタイミングで到着できたときなどは、もう、幸運としか言いようがない。もつ焼き屋にありがちな脂や煙のゴテゴテ感がきれいに清められた開店直後の店内は、すっきりしていて、同じ店に入るにしても、特別な時間である。
焼き台が見える、コの字カウンターの角のあたりに席をしめる。ここが取れたら、それはまたたいへんな幸運だと思っている。ご主人の石塚裕一さんの手元を眺め、串から上がる煙を眺め、そして、ときおり、串の下に見える炭火を眺めながら酒が飲める、そんなスポットであるからだ。
吹き抜けのようになっている店内は、小ぶりなわりに開放感があり、混雑するときは隣の客と肩が触れ合うくらいになるが、窮屈さを感じない。私は、この店にくるたび、ほっとひと息ついてから、さて、飲むぞ、という気になる。つまり、店に入った段階ですでにして、それ以前の私は更新されているのである。
■「ああ、うまいねえ!」
まず頼むのは、赤星の大瓶1本に、名物のみそ焼き6本セット。
串は、カシラ、タン、ハツ、ナンコツ、レバー、シロの6本で500円。単品だと1本90円、6本合計で540円になるから、それだけでもお得であるのだが、このセットにおける1本単価が約83円であることにも驚く。
焼き台の横には、醤油ダレと味噌ダレがある。
みそ焼きは、ある程度焼き上がってから最後に味噌ダレに通して仕上げる、というやり方ではない。最初に串を味噌ダレの入った甕にドボンと刺しこみ、タレをよく纏わせてから焼き台に乗せるのだ。
ジューっと音がして少しばかりの煙が立ち上る。けれど、焦げ臭はしないし、実際、焦げない。盛大に火や煙が上がるわけでもない。このあたりの塩梅が、実はとても難しいのだと、石塚さんは言う。
石塚さんはもともと荻窪で修業をし、高円寺で自分の店を持っていた。こちらは鶏のやきとり店。後に、奥様のお父様が切り盛りしていた「㐂よし」の後継者として蕨へ来た。高円寺の店は、共同で回してきた弟さんに任せた。
ずっと串焼きをしていたんだ、やきとんも同じだろうと、当初は思っていたという。
「昔の要領でいけるだろうと思っていたんですよ。やってみるとずいぶん勝手が違いましてね。難しかったですねえ」
味噌ダレにつけた後の串からは、当然だが、タレが垂れる。焼き台の中に仕込む炭の量が多く、串との距離が近すぎると、垂れたタレで火が消えることもある。
また、炭の量は少なくても、炭と串が近すぎれば、当然、焦げる。気を許していると、外側はカリカリに焦げているのに中まで火が通り切っていない、ということもあったという。
みそ焼きの皿が出てきた。いつものことだが、最初の1本を口へ運んだときに、ああ、うまいなあ、と、ため息が出る。これは大袈裟な話ではないんですよ。本当にうまい。
「ああ、うまいねえ!」 と、声に出す。石塚さんが、どうもありがとうございます、とばかりに頷く。手は休めない。
実はもう、お客さんが入り始めている。というより、午後5時の開店からわずか15分で、私たち3人(編集Hさんと写真のSさんと私)を含めて、なんと15人の客がカウンターに並んでいるのである。手を休める暇はない。
だんだん身動きがとれなくなり、私たちも、飲み喰いの態勢を整える。みそ焼きのセットをそれぞれに頼んだHさんとSさんも、ため息をついている。
はあ、うまいですねえ……。
そうだろ、そうだろ、どうだ、うまいだろ、と店の人でもない私が威張りたい。そういう店なのだ、「㐂よし」は。
■名物がぞくぞく登場
生姜のきいた21世紀ダレのカシラももらう。これも、行けば100%頼む一品。
さらに言うなら、マカロニサラダと、50年もののぬか床で漬けるお新香もほぼ毎回頼む。そうそう、それから煮込みですな。
Hさん、Sさんも、すっかり腰を落ちつけた。つくね、チョリソー、エシャロットなどを追加しつつ、最初のマカロニサラダをつまんだりする。
このサラダは、キャベツ、ニンジン、キュウリなどが細かく刻んで投入されていて、マカロニばかりがモタッとしているのとはワケが違う。お好きな人はウスターソースをかけて、食べる。
大根とキュウリの糠漬けも、歯ごたえ、漬かり加減、いずれも具合がよく、酒の途中で口をさっぱりリフレッシュさせるには最適。欠かせませんな。
見ていると、最初の1杯が瓶ビールという人が実に多い。つまり、赤星の愛飲者たちなのだ。みなさん、そこから始めて、キンミヤの300mlボトルに移り、ホッピーとかレモンソーダとかで割る。そういう方向へいく。もちろん燗酒の人たちもいる。
さあ、このあたりで、さらなる名物を、同行のふたりにお教えしよう。ということで、おもろ豚足ととり豆富を頼む。
前者は、とろっとろの、豚足の煮込みである。しゃぶりついてどうぞ、という一品だが、女性客にも人気がある。
後者は、鶏ベースの湯豆腐といえばいいか。なにしろ、やさしい味わいの小鍋であって、うまいことはもう間違いないわけですが、これを啜ると、酔って霞み始めていた視界がきれいに晴れると言いますか、蘇る感じを与えてくれる。
この連載で以前、神田の「三州屋」の鳥豆腐を紹介したが、狙いも工夫も調理方法もよく似ている、けれども、やや違う。どちらが先か、そんなことはどうでもいいや、と思いながらHさんと話していると、「三州屋」と聞きつけた真向かいのお客さんが、「あ、神田のね」と、相槌をうってくれた。やはり、お好きなのだろう。
葱とシシトウを頼む。 オレはどうしてこう、冬場の焼いた葱が好きなのだろう……。気がつけば葱ばかり喰っている。
我が家の葱とかつお節の消費量がハンパねえことについて、先般も家人と議論したものであったが、今も気がつけば葱を所望している。この季節の、関東の白葱は格別なんだという思いがある。関東で葱といやあ深谷。深谷は蕨からはちょいと遠いが同じ埼玉県だ。
みそ焼きの、濃厚で丸い味わいの記憶があるところへ、塩焼の葱を齧って中和していく。実は葱も、苦くも辛くもない。むしろ、甘いのだ。
ああ、酒が進むねえ。
■常連さんの邪魔にならぬよう
私の席からは、引き戸の向こう、暖簾の脇から覗く人の姿も見える。
次々にやってくるお客さんたちは、入れるかなあ? という面持ちで店内を覗き、おっ、いけそうだな、と踏むとがらりと戸を引いて、いいですか? と声をかける。
最近では、週末には遠方からわざわざやって来る客もいるというから、みなさんが揃って常連というわけではないのかもしれない(この晩は、土曜日でした)。それが、かえって、私のような、ここが生活の拠点なり導線にあたるわけでもないよそ者にとっても、ちょっとした安心感を与えるのだろう。
気をつけるべきは、週に何度も通うような常連さんたちの邪魔にならぬこと。ぼんやりと店内を見回しながら、改めてそう思った。
さて、そろそろ、締めの1杯としよう。
私としては早い撤収であるが、翌日の日曜日には、競馬と競輪のG1競走がある。帰ってじっくり予想すべし、というタイミングである。
では赤星をもう1本いただいて、景気づけとしよう……。
暖簾が風に、あおられている。春も近い。
取材・文:大竹 聡
撮影:須貝智行