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浅草千束通りは、観音様や花やしきの裏手に続く古い商店街だ。かつての浅草六区から旧吉原遊郭へと抜ける道だったから、往時にはたいへんな賑わいを見せたと言われる。
このあたりまで含めて、観音裏と呼んでいいのだろうか。観音裏の範囲がよくわからない田舎者の筆者であるが、それはともかく、浅草寺の裏手には、静かな街の中にいくつものおいしい店がある。蕎麦あり、中華あり、居酒屋あり、レストランあり。観音裏に精通するには、半年や1年では足りないように思う。
千束通りに、大正10年創業の食堂がある。「ナカジマ」というその店は、初めて店の前に立ったときすでに、どこか懐かしいような気持ちにさせた。そうです。老舗と言われる洋食屋さんや町中華は数多あれど、大正期からの営業を3代目の現在まで守っている店には、そうそう出会えるものではありません。
今回、サッポロの「赤星」が飲める店を訪ねるマラソン企画の68軒目にして、このような風情と温かみのある老舗中の老舗にお邪魔できたことに、店に入るその瞬間から、もう感謝したいような気持ちになっているのです。
■冷たい瓶ビールで春の味覚を
店内1階は、すべてのテーブルが埋まると30名くらいでしょうか。2階はお座敷で、やはり同じぐらいのキャパがあるそうです。
3代目のご主人、中島芳夫さんは、ちょうど冬から春のメニューへの入れ替わり時なんですよ、と説明してくださいました。
「冬は湯豆腐や鱈ちりなどの鍋が中心で、魚は、ナマコ、アン肝、フグ皮の三点盛りなどもお出ししていましたが、今は、もう春ですから、アサリ、ホタルイカ、アオヤギなんかが出てきました」
壁のメニューを見ると、魚介はとても充実しています。マグロ、イカ、タイにアジ、とり貝、赤貝、ホタテにタコ、などなど。一方で、かつ丼、親子丼、オムライスにチャーハン。ハムカツやエビフライ、豚の生姜焼きなどの文字も見える。
迷いますな。ともかく、まずは赤星だ。
冷たい瓶ビールでのどを潤します。つまみには、春の味覚。旬を感じられるものがいいと思って選びましたのは、タケノコ煮とソラマメです。
テーブルの上が俄然、楽しげになる。店は、夕刻の開店直後です。外はまだ明るく、混雑するのは、しばらく後のことでしょう。静かな空気が流れるテーブル席で、ゆっくりとビールを飲む。いい気分だ。赤星とタケノコがうまい。
しばらくして、これまた旬のホタルイカとアオヤギが出てきた。アオヤギは、刺身、酢の物、ぬたの3種を揃えていて、ご主人はぬたを出してくれました。いいですねえ。わたしは、ぬたが好きだ。
「これ、版画なんですよ」
私が座っているテーブルの背後の壁にかかっている額を示しながら、女将さんの典子さんが言いました。
神社に納める千社札の会を、千社睦というそうです。店に掲げられた版画は、美しく、精巧で、さすが浅草と思わせる。5月は三社祭の月。毎年、たいへんな盛り上がりを見せる土地では、ここ「ナカジマ」にも、町会の青年部が集まって祭の相談や準備をするのが慣例だった。
ところがこの2年、コロナ禍でそれが途絶えたという。早く昔の浅草に戻ってほしい。東京の西の郊外で生まれ育ち、今もそっちのほうでぼんやりしている私などは、ただ憧れ半分で、そう思うのです。
「信号を渡ったら吉原ですよ」
女将さんが言う。旧吉原遊郭は、店の面した千束通りを渡って、さらにその先、もう一本の道を超えたあたりから先の一帯である。
女将さんのお母さんが娘さんだった頃には「ナカジマ」の常連客に連れられ、吉原のお座敷に行ったことがあるという。「ナカジマ」の女性店員さんが付き添っての話だ。この3人連れに、吉原の女性はちゃんと3人ついた。男性の常連以外はお茶を飲んだものか、お座敷訪問はここで終了。その後は、常連さんだけが残ったということです。
女将さんの話に、はるか前、いや、現在から地続きの遠くない過去を思い、私たちが小説や歴史文献でしか知らない往時の暮らしをぼんやりと想像します。
■ここはモダン浅草の食堂だった
「うちはね、実は、かつ丼とオムライスが評判なんですよ」
ホタルイカの苦味とアオヤギの青い香りに軽く感激していた私を、かつ丼とオムライスという単語が驚愕させる。そして、即座に納得するのです。
そう、こちらは居酒屋ではなく食堂なのだ。明治から昭和にかけての大繁華街であったモダン浅草の食堂なのだ。つまりカツレツやオムレツという昭和の洋食でお客さんを楽しませてきたのです。店名がカタカナなのはそのためだ。
編集Hさん、さっそく、かつ丼とオムライスを注文します。
気がつけば、お店には、ひとり、またひとりとお客さんの姿が見え始めました。おひとりのお客さんが、いつもの席なのでしょうか、迷わずひとつのテーブルを選んで座る。注文は、今日の定食と聞こえました。それから料理がくるまでのひととき、軽く一杯やりながら新聞を広げて寛ぐ。スマホに屈みこむ姿より、やはり胸を張って新聞を広げるほうがしっくりくる。
ご夫婦と思われるおふたり連れもくる。生ビールと、おつまみの何品かを頼んでいる。居酒屋の喧噪とは似ても似つかない静かな光景で、まるで昼下がりの喫茶店でひと休みするご夫婦のようにも見える。それくらいに、しっとりと落ち着いている。
いいものだなあ……。食堂で食べ、飲むひととき。
コロナ禍を挟んで、お店もさまざまに心を配り、我慢をされてきた。その一方で、お客さんも、さりげないけれどこの上なく大切な時間を待ちわびていたのかもしれません。なんだか、気持ちがふっと軽くなるような、いい瞬間です。当たり前ですが、ビールがなおさら、うまく感じられます。
ここで、ちょっと気になったのは、店に置く瓶ビール。昔からサッポロのラガーであったのでしょうか。
「創業からずっと別の会社だったんです。それがサッポロビールの勝又さんという方が来られるようになってから、赤星とヱビスの瓶を入れることにしたんです。勝又さんは、とても律儀に、1週間に1回くらいの割合で訪ねてきて、決まって今日の定食と、ビールを1本召し上がる。そういう方が営業にこられて、うちは、サッポロさんとのお付き合いを始めました。今は、この地域のご担当じゃないけど、年賀状は欠かさず交換していますよ」
創業以来の牙城を切り崩した敏腕営業マン、勝又さん。その名前を私は、頭に刻みました。勝又さんはきっと、「伝説の男」として語り継がれるに違いない……。
■食堂で飲む最高の贅沢
オムライスがやってきた。
おお! 美しい玉子の上のケチャップを見れば、「サッポロ」と読めるではありませんか。なんという茶目っ気。サービス精神。女将さんはこの一品をさして、酒のつまみになります、と言った。
食べてみる。チキンライスが甘くないのです。というより、醤油味の焼きめしを思わせる。玉子はふわふわ、そして、ケチャップでサッポロ……。なんだか楽しい。
想像していたより塩味のあるチキンライスはたしかに酒に合わせられる。これをつまみにビールを飲むのは、うまい、としかいいようがないでしょう。
「これ、おいしいですね!」
ちょうど厨房から出てこられたご主人に言うと、間髪入れず、
「ありがとうございます。今日は少し、気合いを入れてつくりました!」
なんて楽しいのでしょう。そこへ、今度はかつ丼がやってくる。
揚げたての分厚いカツを玉子でとじて、三つ葉をぱらり。湯気の立つその丼の脇にはキュウリとラッキョウの漬け物の小皿。そして、赤星の瓶!
写真家S氏はそれをすばやく撮影し、そして、食べにかかる。映画『幸福の黄色いハンカチ』の高倉健さんよろしく、「ほぉ~っ」と息を吐き、万感の思いを胸に、かつ丼を貪る。コップのビールを一気に飲み干す。
「うまいっす!」
カーット! OK! 完璧でした。
続きまして私も貪る。油が軽く感じられる上質かつ丼。昔、ありがたい思いいっぱいで食べた食堂、いやレストランのカツレツの味がする。うん、うまい。
私もビールをぐいっとやる。
取材班は、すっかり高揚してきて、その後、ハムカツ、それから唐揚げと、揚げ物を連発。いずれもサクサクの食感と口中に沁みるような味わいが心地よく、食堂で飲むのは最高の贅沢であるかもしれないと、改めて思った次第です。
浅草千束通りの「ナカジマ」。いいお店です。
ごちそうさまでした。
(※2022年4月12日取材)
取材・文:大竹 聡
撮影:須貝智行