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JR大塚駅北口を出て徒歩3分くらいでしょうか。駅前から続く銀の鈴通り商店街の中程、きわめて便利な立地に、一軒の中華料理店があります。
レストランというよりは、小ぢんまりとして気取らない食堂風ですが、いわゆる町中華ともちょっと違う。
おそらく昭和の時代からある建物はそれなりに風格を帯びた2階建てで、間口は広くないし、一見地味だけれど、店の灯りを見ればなぜかホッとする。そんな、懐かしい気持ちにさせる構えです。
訪ねましたのは昨年暮れの12月23日。例年なら忘年会シーズンの真っただ中で街の賑わいも頂点に達する頃ですが、昨年の暮れはまだ、コロナ禍からの回復途上といった感じ。東京の盛り場の賑わいも、本格的な回復まではもう一歩という状況でした。
しかし、この「千の香」という渋い店に足を踏み入れたとたん、明るい気持ちになれた。ご主人の笑顔、迎え入れてくれる声、そして、店全体に満ちる温かい雰囲気が、心を和ませてくれるのです。
■最初の2皿で胃袋を掴まれる
まずは、お決まりの赤星を一本頼む。そして、初めての店で何を食すべきか、品書きと相談します。
黒板のメニューで、まず目に飛び込んできたのは、黒木耳のわさび和え。中華ですから、キクラゲは当然としても、わさび和えとはいかなるものか。これは本日必ず頼む一品としてリストアップし、他も見る。
蒸し物には、小籠包の下に、もち米焼売と書いてある。これも興味深いし、上海風蒸し茄子に、上海スープワンタンなども、迷うところだ。さて、どうしたものか。
「今日のおススメは特製チャーシュー。野菜なら台湾豆苗もいいよ」
ビールを運んできたご主人が言う。
「うちは、中華だけど、定食をやらないし、ランチもやらない。夕方5時から開店。食材で勝負しています。特に野菜は、池袋とか上野とか、いろいろ回って仕入れる。全部、自分の目で見てね。デパ地下にも行くし、八百屋さんにも行く。だから、うちに来ると、よそであまり見かけない野菜があるはずですよ。山クラゲとか、中国のセリ、それから台湾豆苗とかね」
おススメに従うと、すぐさま特製のチャーシューが出てきた。
見た目に派手さはないが、口へ入れてすぐに、これは、初めて食べるチャーシューだと思った。
硬くなく、脂身のトロトロが勝って食感がだるくなることもない。適度に柔らかく、味のしみ込んだ、噛むほどにおいしい腸詰のような、いや、これは断じて腸詰ではなく、肉そのものの甘い食感を残した、それでいてじわりと滲みだすうまみをもった、チャーシューなのです。
そして、ほのかに甘い。甘いだけでなく、フローラルな香りがある。酒肴といえば魚介だろうが肉だろうが野菜だろうが、ちょっと辛いかしょっぱいものを好んできた。甘みがあるとしても、魚や肉の骨の際とか肉そのものから出る甘みを好んできたけれども、この特製チャーシューの甘みは、それらとは違う。
黒板を見返すと、桂花蜜汁チャーシュー、とある。李さんに聞くと、桂花からつくる調味料を使っているとのことです。桂花とは、金木犀などのモクセイ科全般の花を指すのですが、なるほど、言われてみれば、モクセイの甘い香りが蜜の味と相まって、味わいをいっそうやさしく、深くしているようなのです。
「豚のバラ肉やらロースやらいろいろ試してみてね。結局、胸から腕のところの三角肉が、いちばんいい」
たしかに――。
上質の脂がほどよくのっていて、身が柔らかい。巷間、中華屋さんは数々あれど、ここまで傑出したチャーシューを出す店はそう多くはない。
続いて出てきた台湾豆苗の炒めものを見てびっくりした。豆苗というとカイワレ大根のような、華奢なイメージだったが、この台湾豆苗は、しっかりした青菜で、歯ごたえもよく、噛めば青く香り、ほんのりと苦みもあって、爽快だ。
「スーパーで売っているような水耕栽培の豆苗じゃないんですよ。畑の土でちゃんと育ったものだから栄養価も高いし、おいしいでしょう?」
そう言いながらご主人は、スナップエンドウをサービスしてくれた。プリッとしたエンドウ豆をさっと湯掻いただけのもので、シャキシャキとした食感と、やはり、青い新鮮な香りを楽しませてくれる。
「どうですか。これを食べると、さっきの豆苗のマメだということが、香りでわかるでしょう」
なるほど、そうか。豆苗というのはそもそもエンドウ豆の葉と茎のことを言っていたのだが、今は豆から発芽した後の幼い状態の若菜が出回っている。そのため、イメージばかりか、食感も香りも味わいも細くしなやかで、今、目の前にあるしっかりした青菜とは異なるのだ。
そして、この豆苗の炒め物がまた、ビールによく合う。
中華料理特有の強火で30秒から長くても1分以内で炒めてしまう豆苗と、日本の伝統的ラガービールである赤星の相性がいい。その不思議を、改めて思うわけですが、ご主人の李文偉さんは、店に置く瓶ビールをサッポロの赤星にしている理由を、こう説明します。
「赤星は、一番コクがありますね。私はビールも冷やしすぎず、常温で飲むのが好きですが、そのとき、苦すぎず、コクがあって、うまいのがサッポロの赤星なんですよ」
■酒を飲めばあまり食べないはずの私が…
李さんが来日したのは1991年。2001年ごろには日本に定着して、2011年の震災によって中国人の中にも帰国者が増えた後、この店の経営に専念しているという。
厨房を任されているチーフは60歳。年齢も近く、上海の同じ町内の出身だから、故郷の味や調理法についての思いや情報はもとより、そのおいしさを見分ける舌の感覚も共有している。だから、李さんが仕入れたおもしろいネタ、新鮮な食材を、李さんのイメージに添いながらチーフが絶妙の一品に仕上げることができる。
店は今年でオープンから16年目。
「このあたりも新しい店が多くなったね。うちができた頃はまだ古い個人店がほとんどだったけど、いつの間にかチェーン店ばかりだよ」
上海料理の店として始めたが、その後、仕入れられる食材や、日本人の好み、時代の好みにも合わせながら料理を変化させてきたという。
日本人の店が次々に姿を変え、大塚の、いかにも大塚らしい空気が少しずつ変わっていく中で、李さんの店は変化に対応しながらも昔ながらの姿勢を崩さない。ビール1本と最初の2皿だけで、そういうことが了解される。
いい店を見つけたなという喜びが、すでにして、ある。
続いてテーブルに乗せられた皿には、てんこ盛りのキクラゲとキャベツだ。
湯掻いたキクラゲをワサビ醤油で和えたシンプルな料理は、キクラゲの分厚さと歯ごたえが身上。何か別食材の添え物としてではなく、料理の中心にデンと構えたキクラゲの堂々とした味わいが、赤星によく合うのです。
これはうまいねえ、と呟いていると、李さんが笑いながら言いました。
「身体にいいよ。血管を丈夫にしてくれる。お酒ばっかり飲んでいる人は食べないとダメよ(笑)」
茹でただけのキャベツも、ちょっとした名物。ほどよく食感を残したキャベツに特製のタレがかかっているのだが、これが絶品。色は濃いがまったく塩辛くはなく、キャベツの甘みと相まって、無限に後を引く味わいだ。
気がつくと、野菜やキノコでビールをおいしくいただいている。普段の私のパターンではない。そして、日ごろ酒を飲めばあまり食べない私がつまみの皿に次々に手を伸ばしていることもまた、普段と違う。
ここで、甕出しの紹興酒をいただく。
「うちのはカラメル色素を入れてない紹興酒だから色が薄いんですよ。温めないで、常温がいい。うまいでしょう? だけど注意してくださいよ」
かったるくなるような甘みがなく酸味が感じられ、すっきりしていて飲み口がいい。たしかに、注意しないと何杯かをスイスイと、あっと言う間に飲んでしまいそうだ。
■私の食欲はまだまだ衰えない
李さんが店の料理で重視しているのは、食のバランスだ。偏ることなく、野菜や肉をまんべんなく食べること。そして、冷たいものの飲み過ぎで身体を冷やさないようにすることだという。
「焼き鳥でお酒を飲んで、締めにラーメンというのもおいしいですよ。でも、栄養が偏るよ。野菜も含めてバランスよく食べないとね。あと、寿司もうまいけれど、生魚は身体を冷やします。人間、疲れたときは、肉がいちばんですから」
そこで、店の人気メニュー、上海肉餃子をいただきます。肉にしっかり下味がついているので、そのままでよし。お好みで酢とコショウをつけていただくのもまた、よろしい。
ぎゅっと肉の詰まった餃子は、野菜たっぷり、あっさり・すっきり感が売り物の餃子に比べてボリュームがあって食べ応えもいい。
常温の紹興酒にも赤星にも、ウイスキーのハイボールにもよく合う。というのも、紹興酒の後で、李さんが個人的に気に入っているというスコッチのお湯割りを啜りながら肉餃子を味わってみて、両者の相性の良さに初めて気づいたからなのです。
スタッフさんたちと一緒という安心感があるとはいえ、私の食欲はまだまだ衰えない。
肉餃子に前後して、黄ニラとたまごの炒めも勢いよく食べる。さっぱりした塩味で、素朴。自然そのまま。白飯にのせて食べてもうまいだろうなと思いつつ、締めの一品に、もう1本の赤星と、上海風焼きそばを頼む。
スタッフさんたちが注文していた豚モツと唐辛子の炒め物ともち米焼売もひとつつまみ、さらに出来立ての焼きそばに箸を伸ばす。
しょうゆ味だ。一見すると味が強そうな印象を受けるが、見た目ほどではない。麺がもちもちしていて、これがまた、大変うまいのです。
食べるものみな素朴で飾らず、素材の味がきちんと生かされている。初めて訪れた店であれこれつまみ、どれもみなうまいということになると、2度目、3度目の訪問は確実だ。大塚は私の居住地からはちょっと遠いけれど、電車に乗っていそいそと出かけることは、まず間違いない。
大塚の「千の香」、覚えておきたい中華料理店です。
(※2021年12月23日取材)
取材・文:大竹 聡
撮影:須貝智行