東急沿線にほとんど縁のない半世紀を過ごしてきたことは、このシリーズでも何回か触れたかと思います。新玉川線も東横線も知らずに育ったようなものですから、池上線や大井町線となると、さっぱりわからない。
ところが、今回、訪ねることになったのは、その大井町線沿線の1軒なのです。
「大岡山に、やかん、という名前の、いい酒場があります。そこは、瓶ビールが赤星ですから、こんどぜひ行ってみてください」
私は、この方を信用しておりますから、迷うことはないと、心に決めて、当企画の編集Hさんにもお知らせし、情報をいただいてから3月も経たぬ6月某日、めでたくお邪魔することになりました。
■酒とつまみも男女の仲も…
改札を出て右手、なんとも平和な空気が漂う大岡山北口商店街をぶらぶら歩いて10分弱。目指すお店が見えてきます。
時刻は夕刻。暖簾を出すか出さないか、というタイミングでお邪魔をすると、開店ぎりぎりまで仕込みを続けている模様です。聞けば、しゅーまいとチャーシューの調理中とのこと。
「チャーシューも毎日お店で手作りしているんですよ。ブロックの豚肉を自家製のタレに漬け込み、表面に軽く焦げ目をつけてから、あとは遠火でじっくり焼き上げます」
店の若手がそう説明してくれる。すると、それまで黙ってしゅーまいの餡をこねていたご主人が、にっこり笑って、
「まだ1時間はかかりますよ。焼き立てを召し上がっていただくため、と言えば聞こえはいいですが、まあ、仕事が遅いだけです」
一見して強面だなあ、と思ったのですが、印象とは裏腹に、気さくな感じがする人です。
店は、カウンターと、奥のテーブル席があり、厨房が広い。そこそこに年季の入った店かと思って聞いたら、開店からまだ2年とのことです。
新しいのに、ちょっとした風格があるのは、ご主人のお人柄ということなのでしょうが、居心地のいい店であることは、すぐに理解できた。
さっそく赤星を、頼みます。つまみには、砂肝のスタミナ漬けをお願いする。
ひと口、食べてみて、ははあ、なるほど、と納得がいく。ニンニクが効いているというよりは、しょうゆ、酢、胡麻などといい感じのバランス(勘で言ってますから適当な感想と思ってください)で、全体、びりびりくるのではなく、むしろ穏やかで、それでいて、スタミナ漬けの名にふさわしいパンチがあるんですな。
豚肉を、ゴマ、ニンニク、ショウガを入れたしょう油ダレに漬け込んでおいてからカリッと焼くしょうが焼きは、私の若い頃からの好物でしたが、あの、どぎつい味から多摩の田舎っぽさを抜き去ると、こんな感じになるのかな、などと愚にもつかぬことを考えている。
それはともかくとして、この季節、爽快なニンニク風味は最初の1品としては最適で、もちろんのことだが、1本目の、さらには1杯目のビールにぴったりと寄り添う。
男女の仲なども究極は相性なんだよな、と、再び愚にもつかぬことが頭をよぎるのは、いよいよ酒毒が脳天に回った証拠か。
■試行錯誤の末に辿り着いた「あの味」
「蒸し手羽とか、煮込み、チャーシュー、ハムカツなんかが人気ですね」
店の兄さんのお勧めにしたがい、冷静蒸し手羽を追加する。
これが、抜群なんですよ。
一見して、変哲もない蒸した手羽なんですが、あっさり塩味で、身もしっとりとして柔らかく、なんとも、うまい。
ご主人いわく、
「武蔵小山商店街の味なんですよ。昔、珍宝という小さな中華屋さんがありまして、そこの名物だったんです。私らが子供のころは、これをお袋が買っておいてくれて、いつも冷蔵庫に入っている。学校から帰って腹が減ったと言うと、手羽でも食べてなさい!って。もう、貪り喰ってね。骨までしゃぶってましたよ」
武蔵小山の子供たちのおやつであり、晩のおかずでもあっただろう冷製蒸し手羽。どうにかアレを再現したい、とあれこれ試行錯誤した挙句にたどりついた味は、武蔵小山育ちの大人たちには共通の思い出で、この「やかん」ができた後、店に来たご主人の友人たちは、
「ああ、これだ、これだ!」
と喜びの声を発したという。
ふと気になって、このご主人、伊藤浩之さんに、生まれ年を聞いてみました。
「昭和39年です」
「おお、わたし、38年」
「何月ですか」
「4月」
「オレ、39年の早生まれ」
「なんだ同級生じゃないの、ビール、飲もう!」
お互い、50数年生きている。伊藤さんの前職は食品系の商社マンで、地球の裏側まで食材やら、香辛料やらの仕入れに出かけていったそうですよ。
「脱サラして、1年くらい、いろんな店を飲み歩いて、居酒屋や蕎麦屋で働きながら勉強させてもらって、ここを始めてから2年ちょっとです」
おもしろいですねえ。わたくしも勤め人時代はセールスマンで、伊藤さんのように世界を股にはかけず、せいぜい23区の半分くらいを走り回っていたものですが、やはり今は、そのときとは違う仕事をしている。
人生が2度も3度もあるわけじゃないけれど、仕事をかえると世の中の見え方もがらりと変わるもので、そのことだけは経験しているから、ちょっとばかり想像してみるわけです。
会社に所属して、その中でやりたいことを存分に、と考えていた時代と、一国一城、自分の店を切り盛りするようになった今と、世の中、どんなふうに違って見えるのか。それとも、あまり変わらないものなのか――。
こちとらは、ただ飲み歩くばかりで一向に酒場の嗜みを覚えないダメオヤジですが、同世代だ、一度ゆっくり酒を酌み交わしたいなあ、なんて思うわけです。
で、繰り返しますが、蒸し手羽ですよ。抜群なんだ。これなら何本でもいける、と少食の私が太鼓判を押したい。
赤星のグラスも勢いよく減っていきまして、こうなると、俄然、調子が出る。
■「魔法のやかん」には要注意
お店のほうは17時の開店と同時に客が入りだし、30分もすると、けっこうな賑わいを見せ始める。
暇な日は暇ですよ、なんてご謙遜もいいところ。私だって、近くに住んでいりゃ、開店を待ちきれずにやって来ることでしょう。
蒸かしたての自家製シュウマイが出てきた。
こういうものは早い者勝ちであるからして、早くから来たわたしは、常連さんへの遠慮もなく、ちゃちゃッといただいてしまう。
うまくないはずがない。ますます、調子が出る。
評判の煮込みは、塩味だった。けれど、これがまた、スープの味が穏やかなのです。
塩煮込みというと、あっさりに見せかけながらやたら塩気の強いものが多いような気がしておりますが、スープ自体は薄く、小鉢の縁に塗ってあるニンニク辛みそをお好みで溶かし込みながら、おのおの、自分の気に入る濃さに調整して食べることができる。
三元豚のモツは臭みもなく、歯ごたえも程よく、なんとも品のいい煮込みであって、スープをすすってから味噌だけ舐めるなんてことまで試したくなる。なぜって、そういう味覚も、酒に合うと思うからですよ。
あらかじめ頼んでおきました自家製チャーシューの登場に合わせて、焼酎ももらうことにした。
木桶にたっぷりの氷。そこにおいたやかんの中で甲類焼酎が冷やしてある。冷え冷えの中身をたっぷり注いだコップに、お好みで梅シロップをポタポタ垂らし、そいつをすすりつつ、チャーシューの、ほろほろと蕩けるような甘さを堪能し、後から、注文しなおした冷たい赤星も流し込む。
ハムカツに目のない写真のSさんは、我慢できず「貴族のハムカツ」を注文。
粗挽きのブラックペッパーをふった気品ある佇まいとチェダーチーズ入りの豪華な味わいを満喫している。
私と編集Hさんは、とり天たるたるや春菊のナムル、終いには、ぬか漬けにまで手を出しつつ、なかなか激しい勢いで飲む。
とり天はいわずもがな、ダイコンとキュウリの浅漬けがうまいし、春菊のナムルも、酒の相手には格別で、冷やした焼酎を自分のコップに、やかんから直に注ぎたいような、危ない誘惑にかられてくる。
すっかり酩酊してしまう前に店名の由来を聞いてみた。
「実は若い頃ずっとラグビーをやってまして…。昔は試合中に失神した選手の気付け用に、氷水が入った大きなやかんが常備されてましたよね。アレです」
ああ、ありました、ありました、「魔法のやかん」。でも、ここのやかんに入っているのは25度のキンミヤ。ちょっとなら気付けになるが、飲み過ぎると逆に意識を失いかねないわけで要注意です。
カウンター席の小さな丸椅子で十分にくつろげる。店内を見渡せる入り口近くの席を常連さんが好むという話を聞いたが、それもそのはずと納得できた。
大岡山のやかん。こちら、名店です。
取材・文:大竹 聡
撮影:須貝智行