サッポロラガービール、愛称‘赤星’が飲める店を訪ね歩く赤星100軒マラソン。連載も今回で96回目を迎え、取材隊は再開発が進む渋谷へ足を向けることになりました。
山手線外回りの電車が原宿方面から宮下パークを越え渋谷駅へさしかかるとき、左手下方にエアコンの室外機をのせた屋根が見えてくる。建物は長屋風である。
ああ、ここは、まだ、変わらないのだな……。
何年にもわたって続く再開発によって、来るたびに街の顔が違って見える渋谷にあって、ここだけは、どうやら昔のままだ。少なくとも外見的にはそう見える。しかし、それだけで、なんだか嬉しい。
この長屋風の建物とJRの線路の間の路地、そして一本中へ入った路地のある一角は「のんべい横丁」と呼ばれ、小さな飲み屋が38軒も並んでいる。今回お訪ねする「紫水」という居酒屋も、その中の一軒です。
意外な経歴の2代目店主
渋い縄のれんを分けて引き戸をあける。中は、ぎりぎり詰めて7席ほどの、カウンターだけの居酒屋だ。
スウェット地の黒Tシャツを着て、同じく黒のハンチングをかぶったマスターは古野博之さん。今年で68歳だというが、スマートで、ダンディな印象の方だ。
席に着くなり、まずはビールをお願いすると、
「今日のお通しはゴマ豆腐か、柿とイチジクの白和え。どちらにしますか」
そうやさしく声をかけてくれた。ビールはもちろん赤星だ。
「先代のママはここを30年くらいやっていたのですが、ビールは最初からずっと赤星だったみたいですね。私は8年前、還暦になった年に引き継ぎました」
古野さんはかつて常連の一人だった。本職のお仕事はコマーシャルフィルムなどの撮影監督で、赤星ではないが、現在でも「サッポロ クラシック」という北海道限定ビールのテレビCFを担当しているという。
古野さんが還暦を迎える半年ほど前にママが病に倒れ、常連3人が交代で店を開ける時期があった。その後、ママが亡くなられると、他の常連さんや店の大家さんからもやってみたらと勧められ、じゃ、私がやりますと、手を挙げたのだという。以来、酒場の主であり、時に映像監督でもあるという。
お通しの白和えがうまい。きっと、もともと料理にも覚えがあったから、飲み屋を継ぐという決心もできたのだろう。それとなく訊いてみると、古野さんは照れたように笑って言った。
「最初は、ひどいものだったよ。なんにも知らなかった。ピーマンに納豆を詰めて生のまま出したりね。そんな感じ」
「でもそれ、おいしいのでは?」
「そう、案外おいしい(笑)」
当企画の編集Hさんが選んだお通しはゴマ豆腐。ちょっとお邪魔をして箸をのばすと、これもまた上品な味わいで、すばらしい。
では、本格的に酒肴を選ぼうということで、古野さんお薦めの一品、手羽先の唐揚げを頼んでみた。
それにしても、この狭い厨房で、焼き物、炒め物はもちろん、揚げ物にも対応するとは恐れ入る。
出てきた皿を見下ろせば、小ぶりの手羽先の唐揚げに、スダチが添えてある。下味がごく薄いためだろう、色合いも白く、見るからに淡泊な印象の唐揚げ。どれどれ、と熱いところを口に入れて驚いた。驚愕、とあえて言いたい。
ほんのりの塩味で、肉はふんわり、しっとり。なにより、うまみが深いのだ。なんなんだ、この唐揚げは……。
「手羽を扇風機で風干しにしてあるんですよ。そうすると余計な水分が抜けて、うまみが凝縮するんですね。本当は12時間でいいんだけど、昨日は扇風機かけっぱなしにしちゃって、20時間、風に当てちゃった(笑)」
風干しかぁ。なるほどねえ。神田の馴染みのおでん屋ではよくヤナギガレイの風干しを炙ってもらって日本酒の肴にするし、以前、日本橋の寿司屋では、風干しにした鮎の煮びたしのうまさに、のけ反ったことがある。水分を抜いたらうまみが増すのは、カレイも、鮎も、鶏も同じということ。それに改めて気付かされ、思わずため息が出たのです。
「実はこれ、京都の『食堂おがわ』のレシピなんですよね。あのお店はレシピをオープンにしているから、みんな真似してね。五反田の『食堂とだか』でも出しているんじゃなかったかな。うちの常連の女性にも人気で、ご自宅でつくっている人も多いですよ」
とにかく不精な私ですが、このうまさ、自宅でも楽しんでみたいと、健気に考えます。
『深夜食堂』を思い出す一品
さて、次なる一品はHさんのお薦め、タコウインナーをいただきます。
刻みを入れた赤ウインナーをフライパンで炒めると、足が開いてタコになる。そこへネギの青いところの小口切りとニンニクと生姜のみじん切りを投入。さっと一緒に炒めてから、仕上げにバターをひとかけ。食欲をかき立てる香りが店内を満たす中、ネギを皿の中央に、ウインナーをぐるりとその周りに配して完成した。
たしかにタコウインナーだけれど、イースター島のモアイ像が草原で車座になっているみたいにも見えて、おかしい。
古野さんのシャツにプリントされているイラストの作者はこの店の常連さんで、『深夜食堂』のファンであるという。あのシリーズの作中に出てくるのがまさにタコウインナーで、常連さんの要望に応じて出したのだが、それがいつしか定番メニューに仲間入りしたのだという。
その味わいはというと、いわゆるタコウインナーであります。それで、いい。いや、そこがいい、と言いたくなる、安定のタコウインナー。
かくいう私も『深夜食堂』のウインナーの回(ヤクザがタコウインナーが大好きという回)はとても好きなので、このひと皿を前に、自分も松重豊さん演じる新宿のヤクザになった気分をしばし味わうのです。
ふと見れば、壁の品書きに、「ツービート盛り」というのがあります。古い店ですから、かつてツービートのおふたりが来たことがあるのか。いや、ツービートの全盛期は40年以上前ではないか。はたして、どうなんだろう……。
「お客さんの中にタケシとキヨシという二人のシェフがいて、ある日、タケシがベーコン、キヨシがパンチェッタを持ってきてくれので、一緒盛りにしてね。タケシとキヨシだからツービート盛りと呼ぶことにしたんです」
これも、おもしろい。そして、もちろん、うまいのだ。赤星が進む。
ここまで口に入れたもの、全部おいしく、赤星が進む。ピーマンに納豆を詰めて出していた古野さんの料理の腕は、店を引き継いでから8年の間に飛躍的に向上したのだろう。いや、おそらくだけれど、古野さんは、やるとなったら凝る人で、きちんとやらないと気が済まないタチなのではないか。
ギンナンを頼んだら、ムカゴと栗と3品を乗せた皿が出てきて、なんとも嬉しい気分になる。こんな具合に、酒好きたちの味覚のツボをするどく突いてくるのだ。
それならばと、季節外れの陽気から一転して急に気温が下がったこの日、福岡県出身という古野さんにもつ鍋を注文してみることにした。
期待に胸を膨らませながら待っていると、見るからにうまそうな、ぐつぐつ煮立つ鍋が出てきた。ふうふう言いながらスープをすすり、ニラを喰い、もつを噛む。絶品だ。
一通り具を食べ終わると、本場さながらに、残ったスープでちゃんぽん麺まで提供してくれる。
正直に言うと、縄のれんをくぐるとき、この小さな居酒屋で、こんな絶品鍋に出会えるとは思っていなかった。
ここはにわかに去りがたし……
私たち取材隊は開店の少し前からお邪魔をしていたが、正式に開店すると間もなく、常連さんたちが訪れ始めた。古野さんとのお付き合いは長いらしく、みなさんリラックスして、まずは赤星から飲み始める。
初めて来た私にも、きさくに話しかけてくださるみなさんは、私より少し年配の方々なので、還暦を過ぎた私なども、先輩たちの仲間に入れていただいたようで、懐かしいような気分になる。
昔、酒場に通い始めたばかりの頃は、どの酒場に行ってもいちばん下っ端だった。何か話そうとしても相手にされないようなこともあったけれど、先輩たちがガヤガヤと議論している中で酒を飲むのは、思い返せば胸の中が温かくなるような経験だった。
その気分を今、渋谷の小さな酒場で再び味わっている。なんともありがたいことだと思いつつ、エビの串焼きをかじりながら、デュワーズのソーダ割りを1杯、2杯。渋谷のど真ん中とは思えない空間で、時間はゆっくり流れていく。
撮影も一段落して、カメラのSさんが頼んだ締めの一品を見ると、鮭のご飯に筋子をのっけた、贅沢な炊き込みご飯ではないか。しかも、カニ汁までついてくる。
壁の品書きを改めて見渡すと、鮭、本マグロ、カンパチにブリ、銀鱈と、魚が充実していることに気がつく。
「自宅近くのオオゼキで仕入れるんですよ」
古野さんは、仕入れ先もすぐに教えてくれるのだった。
「オオゼキでは、チェーン全体で買い付けるものとは別に、3割くらいは各店舗に仕入れの裁量が与えられているらしい。私の行く店は、魚の品ぞろえに力を入れているんですよ。安く、うまい魚介が手に入ります」
なるほどなあ。気取らず、気負いも感じさせない古野さんの穏やかな話しぶりが、こちらの気持ちをさらにリラックスさせてくれる。
狭い店だから、常連さんたちが続々とお見えになる頃には遠慮したほうがいいのだろうと思うけれど、その一方で、にわかに去りがたしという気持ちもムクムクと湧いてくる。こんな気持ちにさせてくれる店、久しぶりだ。
勝手知ったるつもりでいた渋谷に、またひとつ名店を発見してしまった。
(※2024年11月7日取材)
取材・文:大竹 聡
撮影:須貝智行